合宿報告④_突破できなかった壁の正体

合宿報告④_突破できなかった壁の正体

予期せぬ成功

合宿も終盤戦に差し掛かってきた。ここからは実践ワークやアクション・プランの作成である。かなり疲れもあるだろうに、社員たちは皆、楽しそうである。しかし、対照的にというべきか、私の心は、実は、濁りでいっぱいだった。どうにもこうにも整理がつかない。どんより曇った空のようにスッキリしなかった。特に、3週連続で数字や戦略を集中的に扱った直後の朝、久しぶりに悪夢にうなされた。経営危機の時に感じる追い詰められたような感覚とも違う、なんともいえない混沌が胸を占める。どうにも気持ちの整理がつかなった。

私は正直、ここまでうまくいくとは思ってなかったのである。この結果は、私にとっては「予期せぬ成功」である。「状況の意味付け」とか、「3択問題・問題」とか「ダブルループ」とかいわれるような補助線を、ただ、つどつど意識させるように促しただけだった。そして、手順を踏んで事業戦略を体系的な「問い」に分解していって社員の目の前に提示しただけだった。それが、これほどの威力を発揮するとは・・・、正直、驚いた。社員の目が輝きっぱなしだったのだ。理屈ではわかっているつもりであった。合宿も初めてではない。ファシリテーションも何度もやっている。でも、今回の読後感は、これまでの合宿とは全く違うものになったのである。

私の胸に去来した混沌は、「見たいものだけを見ようとした結果見落としてしまった、近代人の真実だった」のではないか、そう思う。近代社会とは所詮、人為的なシロモノである。であるならば、生まれながらにして「近代の作法」を理解している人間など理屈上いないことになる。すべて「理解」は「学習」の結果、ということになる。そして、日本の学校教育はこの近代への対応に遅れまくっている。学ぶ姿勢(作為の作り方)さえ教えればいいものを、逆に、それだけは教えることなく卒業させてしまう。やっていることは近代教育とは真逆の後進性である。それは理解していたつもりだった。しかし、目の前にいる社員たちには、それを自分だけの力で乗り越えてほしいと思っていたのである。所詮、無理な相談だったのである。近代人には前提、近代教育(=作為を宿す方法論の教育)が必要だったのである。私はそれを見事なまでに見逃していた。その事実を突きつけられて、わたしは頭がくらくらしてしまったのである。私は近代という社会構造を何もわかっていなかった。それで20年、経営者を自称してきた。レベルが低い・・・、ふがいない・・・、そう思った。

 

「作為の契機」を獲得する補助線を引き続ける

日本の経営は、この「作為の契機」を獲得する方法論を補って初めて成立するのである。戦後の日本社会においては、なおさら強調しないといけない。

「作為の契機」とは、「神の目」「3択問題・問題」「東西南北・前後左右」「座標を定める」「状況の意味付け」「そもそも今何をしているのか」「その場の意義を考える」「ダブルループ」などなど、言い方は様々だが、要は、地上はるか空高く、私たち人間の世界を眺める「視線(=視座)」のことである。そうすると「世界は自分の手で変えられる」と思えて人は元気になる。世の中のメカニズムを「わかる」と、人間はなぜか元気になるのである。中世から近代への歴史の転換点になった革命がこれと同じ構造でなされているのである。というより、「神の目」を獲得したからこそ、中世は乗り越えられ近代が開けたのである。フランス革命やアメリカの独立・明治維新なども根本的にはこの「視線」が起こしたイノベーションである。(歴史的経緯は『痛快!憲法学』小室直樹著に詳しい)

究極、中期経営計画の合宿で、私が意識したのはこの点だけである。そのために、膨大な時間を使って議論をしてもらう機会をつくっただけである。社員が自分たちのことばで語るチャンスを作っただけである。要は、「神の目」的補助線を引き続けた、それだけである。その舞台の上で、社員たちは自力で「作為」を獲得した。自分の手で、この会社を、この社会を、変えられると思うところまで辿り着いたのである。

 

アメリカの海兵隊やFBI・CIAも「訓練」という言葉を使うなぁ

でも、ここでふと思う。アメリカのテレビドラマなどを見ていると、FBICIA、海兵隊の若手は必ず、訓練という名の厳しい時間を経て一人前になっていく。サイモン・ベイカー主演の「メンタリスト」でも、CBIからFBIに転職したチョー捜査官も「先月、訓練を終えたんだ」と誇らしげにジェーンに語るシーンがあった。「訓練」とは要は、「神の目」を獲得するための補助線だろ?訓練を経ることで、自分が何をやっているのか、何をすべきなのかがわかる、そういうことだろ?そう感じたのを鮮明に覚えているのであった。

ということは、日本人だけが近代教育が必要なのではない、ということである。近代人には、国籍や人種・宗教の如何を問わず「近代教育」がどうしても必要なのである。でも、今の日本には、この「近代教育」の体制が社会的に整っていない、そういうことになるではないか。それは義務教育でも、高等教育でも、また、社会のあらゆる機関で同じ現象が起こっているのかもしれない。逆に、この構造的困難を理解したものが、近代の荒波を乗り切るすべを身に着ける、そういうことなのかもしれない。

私はようやく、近代社会というものを理解したのだろうか。近代社会で生きる術を理解したということなのだろうか。

 

近代社会の「自立」には発射台が必要である

私自身は、創業という経験から「作為の契機」を強制的に覚えさせられた人間である。ただただ、追い込まれ、現実に必死に対応する中で、近代社会というものを身に着けていった気がする。そういえば、今思い出せば、創業から今日まで、いつも締め切り時間に追い立てられながら「答え」を絞り出してきた。まるで今回の合宿のように。だから、やはり、生まれながらに「作為の契機(神の目)」を身に着けていたわけではなかった。偶然が用意してくれた訓練によって「作為の契機」、すなわち、近代の作法は身についていったのであろう。

ゆえに、創業という経験をするわけにはいかない社員には、どうしてもやはり「教育制度」としての「機会」が必要なのであろう。近代人の「自立」には、教育の機会という「発射台」が必要なのであろう。

 

近代社会は人為的な妄想で出来上がっている。いうなればこの社会は、歴史的な偶然の積み重ねで構造化した「砂の城」のようなものである。誰も、先天的に「知っている」ということはないのである。

だからである。近代人にはどうしても「近代教育」が必要である。それは、近代という特殊な社会の「建付け」を、身をもって学ぶような、スポーツの練習にも似た学習の機会であるのだろう。

 

それが私たちの場合は、「合宿」という名の集中的トレーイングで再現された。最初、「本当にここまでしなければならないのだろうか」と自分を疑った私ではあるが、論理的な分析に忠実に従って実行してよかったと思っている。これで悪夢からも解放されそうである。自分のこだわりを「あきらめる」ことによって、心の濁りも解消してきた気がする。壁はやはり自身の心の中にあったようだ。

あとは、より科学的に、厳密に、私たちの具体的な事業における【「作為の契機(=神の目)」地図】を設計することである。わだかまりが消えれば自信はある。体調を崩さないようにして集中するのみである。