【ニュースコラム】マスコミの姿勢に感じる巨大な違和感
構造的なミスリード
12月7日付けの日経新聞トップページ・コラム『春秋』。私は読んですぐに巨大な違和感を感じた。
一読しても何が問題なのかわからない人が多いだろう。文法は間違っていないし構成も上手だ。書き手の心の構造を問わないのなら、国語のテストの問題になってもいいくらいなのかもしれない。それほど文章は淀みなく、熟練した書き手の技能が存分に発揮される。でも、やはり、これは真に新鮮な「食べ物」ではない。新鮮なフリはしているが、この文章は心の栄養にはなりえない。そこからは「浅ましさ」という強烈な腐臭を嗅ぎ取らざるを得なかった。
構成はこうだ。野球日本代表の監督に選ばれた栗山氏の本に書かれた真摯な文章を引き合いに、みずほ銀行のシステム障害にまつわる「不祥事」や、不正蓄財で逮捕された日本大学の元理事長の倫理観を糾弾するという内容。野球と規制でがんじがらめの大企業のトップと私立大学と論語・・・置かれた社会的な位置と責任の重さと、そもそもの問題のありかが全く違うものを並べ立て、その倫理観を糾弾するその態度に私は具体的な責任という痛みを感じたことがない人間の小手先感を感じた。「この人は本当に責任ある立場に立ったことがないのだろうな」そう思った。そもそも野球の監督と企業の経営者は立場が違う。野球の監督は社長ではなく事業部長。真のトップは栗山監督を指名した人であろう。果たしてそれが誰なのか、それをこそ問うべきである。日大の理事長は置くとして(これは論評する価値がない)、みずほのトップも彼ではなく金融庁だろう。そもそも、合併させたのは誰なのか。問題の根はそこにこそあるはずである。
日経「春秋」の影響力は大きい。明らかにミスリードである。それも今の日本にとっては罪深いミスリード。いつものことだがため息が出た。
みずほ銀行(グループ)のトップは金融庁長官ではないのか?
日本の銀行のトップはそこにいる経営陣ではなく金融庁である。かならずしも時の長官ではないのが事情を複雑にしているのだろうが、それを官僚機構と呼ぼうと何と呼ぼうと、間違いなくみずほを誕生させたのは国家官僚である。11あったメガバンクを3つに収斂させたのは銀行の経営陣ではないだろう。将来を左右する最重要の決定が出来ない人間を、ふつう経営者とは呼ばない。システム障害はその合併が引き起こした。合併の指示を受けシステムの統合を推進したみずほの経営陣は事業部長のレイヤーでしかない。それかせいぜい執行役員クラス。重大な決断は全て官僚が行っている。経営者は危機の時に働くものである。そして、その帰結に責任を持つ。今回のシステム障害の責任はひとえに金融庁という国家官僚にある。社長が事業部長に責任を押し付けていいはずがない。
バツが悪いので本人(みずほの経営陣)たちは口が裂けても言えないだろうが、日経は違うはず。そこにある真の問題のありかを見逃して大衆に迎合するような記事を書いていいはずがない。日経はあきらかにマスコミの「責任」を「果たし」ていない。
日本にある真の問題は、国家官僚がこうして責任を他者に押し付けて嘯くことと、それを糾弾しないマスコミの体質である。三権(司法・行政・立法)を手中に収める国家官僚と第四の権力であるマスコミが慣れ合いを始めれば好き勝手できるのが近代国家の建付けである。それによって真の問題は覆い隠されてしまう。マネジメントの基本は問題の数を減らすこと。つまり、真の問題を見つけそれを真正面から叩くことである。枝葉の問題を解決しようとしても物事はまえに進まない。大衆迎合的なエンタメになって視聴率は伸びる(広告が売れ新聞の懐は温まる)だろうが、社会の公器としての「責任」を「果たす」ことにはならない。
日経が掲載する「みずほ関連の記事」には、こうした腐った構造が隠れていてなんとも切れ味が悪い。それをさらに「論語」の権威を借りてきて正当化する始末。ずっと我慢してきたが、やはり書くことにした。ちょっと酷すぎる。
それは何問題か?_の底が浅すぎる評論が多すぎないか?
システム統合やマーケティングといったタスクは頭が良ければ出来るもの。そこに「責任を取る」という胆力は必要ない。日本の問題の本質は「ここの理解」にこそ潜んでいる。(いや実は日本だけではない。しかし、話がややこしくなるのでここでは日本に限定することにする)
ポストモダンの本質は「物語り」創造である。そもそも人間には東西南北・前後左右という位置と方向性が必須である。宗教なき近代社会においてそれを担うのが「物語り」である。個別の企業が掲げる経営理念とか、マスコミの使命とか(本当は国家ビジョンとか)、こうした無数の「物語り」が現代人である私たち日本人の心を支えてくれる。宗教やイデオロギーのようなデカい物語りがなくなった代わりに、こうした無数の「小さな物語り」が私たちの元気の源である。
もしその「物語り」が浅ましくさもしく、当事者の損得勘定しか反映しないモノであったなら、そこに関わる人間の存在は救われようがないではないか。大企業は究極、取引しなければいいだけだから問題はそれほど大きくないともいえるかもしれないが(それでも大きいとは思うが)、それが、誰もが影響を逃れられないマスコミであるとき、その罪の重さは計り知れないだろう。はっきり言って戦後の日本人が、日本人であることに誇りを感じられないのは日本の大手マスコミの責任である。政治は国民が作る。国民はマスコミが作る。マスコミのトップはNHKと大手新聞社である(テレビ局は新聞社が所有する)。
問題の底の底、そして、どん突きまで行く心意気
適切な「物語り」がないと統合失調症になって死にたくなるのが人間という生命。人類の歴史は端的にいえば「物語り」をいかに創造するかの歴史と言い切っていい。
自分が今どこにいて、どこに向かおうとしているのか、その「物語り」を理解し納得することこそが、人間という生命のエネルギーの源である。人間はメカニズムを理解すると元気になるのである。
もともとキリスト教的な神を持たないわれわれ日本人は明治期、天皇をその代替え物にすることで「物語り」を急ごしらえした。外国の圧力を跳ね返す必要があったからである。そうして第二次世界大戦の敗戦。その「神」の代替え物である天皇は神ではなくなった。三島由紀夫が嘆いたように、わたしたち日本人は「物語り」の一番の「筋」を失ったのである。政治学者の故小室直樹博士はこれを「急性アノミー」として警鐘を鳴らし続けた。(日本の大衆にはそもそも自分で物語りを紡ぐという動機がない。宗教なき社会は、自分の頭で考えられない大衆を方向付けられない)
今の日本には底流を流れる「物語りの筋」がない。今の日本には文脈がないのである。その場を、面白おかしく楽しむしかすべがない、脈略を感じない四コマ漫画のような世界である。基本、飲んで笑い飛ばすしか術がない。
時に、それ(笑い飛ばすこと)は生命の清涼剤ではあるが、こと「(ポストモダン社会における)仕事」と銘打つ活動において、日本の基本的問題に背を向けることがいかほどの罪深さを意味するか計り知れない。マスコミも財務諸表を抱えている以上、利益を出さなければならない構造であることは理解できる。しかし、理念や使命を業績の手段にしてしまうことは「責任」を「果たす」ことにはならないのではないか?マスコミに限らず近代社会の組織が「責任」を「果たす」という場合、それは「業績が使命の手段」になっているときだけである。
もちろん使命や理念を優先すると短期的には倒産の確立が高くなるように感じる。マネジメントに責任をもつものにとっては長期的な利益より足元の利益の方がつねに気になるものである。
だから経営者は問われるのである。
「組織が消え去るような巨大な危機が訪れた時もそれ(理念や使命)を貫き通せるのか?」
事業部長と経営者の「責任」の違いが現われるときである。
日経の記事にはその胆力がまったく感じられない。経営者じゃないのだから仕方ないのか?そんな声が聞こえてきそうである。しかし、ことはマスコミという第四の権力という巨大な影響力を有する存在者の話である。浅ましい構造が許されていいはずがない。社説やトップページのコラムの影響力は、国民の「物語り」創出という意味で巨大な力を有するはずである。少なくとも問題のありかをはぐらかさない、問題の底の底にまで触れるような記事が読みたいものである。
わたしが毎日、目を通す新聞である。今だ日経が教科書のようになっているサラリーマンも多い。会社が死守する理念は心の栄養素なのである。頭の良さを誇示する前に、日経は襟を正さねばならない。
腹が立って一日が始まるのもまた一興ではあるが、たまには感動して一日を始めたい。
もうすぐ2022年がはじまる・・・。
今日もため息が止まらない。