「もっとほんとうのこと」が捉える地平

「もっとほんとうのこと」が捉える地平

ずいぶんと更新をサボってしまった。ようやくパソコンに向かう気になった。久しぶりなのでちょっと文章が固くなりそうである。この数か月間、会社の未来を深く考える期間が続いた。来週は第1Qの締めの合宿もある。今の心境をまとめておきたいと思う。

「もっとほんとうのこと」を問うことによる思考の広がりを書き留めてみたい。ミッション・ビジョン・バリュー(M・V・S)とも絡めてみる。

 

大切なのは矛盾の中に留まり続けること

あくまで資本主義の内側に閉じ込められた存在として現実の会社を運営する立場に留まりながら「本当に大切な問題にどこまで誠実であれるのか」。それが「もっとほんとうのこと」ということばに込めた私なりの意味である。私はやはり学者にはなれない。作家やジャーナリストにもなれない(もっとふさわしい人がこの日本にはたくさんいる)。私はあくまで現実の汚れた世界と深くかかわり続ける経営者でいたいのである。人間の欲や感情が複雑に絡み合って決して計画通りには進まない組織という現実と向き合っていたいのである。決して割り切ることが許されない現実の混沌の中に居ながらにして、学者や作家が求めるような「ピュアな世界」に憧れ続けたい。「今ココ」から決して離れることを許されない、資金繰りに縛り付けられたプレッシャーの中、「理想」を考えるのが私には似合っている。

時に、巡り巡って弱者を生み出すようなメカニズムを持つ新自由主義的なエージェントという立場に片足を突っ込みながら、超越的なイデアの世界をも見続けていたいのである。いや逆である。純粋なイデアの世界を現実という「デタラメ」の中に実現しようともがいていたいのである。たとえそれが分厚く堅い板に素手で釘をねじ込むごとき気の遠くなるような作業だったとしても、である。だから、筆のみを武器とする作家や学者やジャーナリストという立場ではダメなのである。やはり、「ことば(論理)」以外のものに振り回され続ける「実際人」であり続けなければならないのである。超越と実存の境界線上の、グラグラする地面の上に立っている必要を感じるのである。それこそが私のモチベーションの源泉であるのだろう。私はアンビバレントな感情をこそ求めている。私が考える「もっとほんとうのこと」は、矛盾に引き裂かれた「場」の中にしか見いだせないような気がしている。

 

矛盾に留まる内省こそエネルギー

「自分というもんだい」に深く向き合う「内省」が私のエネルギーの源である。ちょっと疲れたら真理に触れるような「ことば」を体内に取り入れたくなる。哲学や社会学の古典たちは、なぜか私に力を取り戻してくれる。どうしようもない絶望に満ちた現実に立ち向かう私の背中を強く押し出してくれる存在である。「内省」もやはり矛盾との対峙だからなのだろう。

私たちはすでに西洋の枠組みでしかものを語ることを許されない。内省も、厳密に行おうとすれば、分析的・科学的にしかもはや可能ではない。「なぜなら、『東洋』はすでに『西洋』のなかで措定され存在させられたものだからである(『内省と遡行』柄谷行人著)」。仏教の縁起思想は、直感的には感得できるが記述することは叶わないのである。マルティン・ブーバーがいう「我と汝」という古代社会の感性にはもはや戻れない運命である(一瞬は可能だろうが)。ウォーラーステインのいう資本をエンジンとする近代世界システムは「論理学」のことばでしかコミュニケーションを出来ないようにしてしまったのである。世界の隅々まで巻き込んでしまった世界システムは、私たち一人一人の「内省」にまで影響を与えているのである。

それでもやはり、内省で感得したいのは自分自身の「意思」の姿である。でも、「意思」も近代世界システムが鮮明にした概念でしかない。根拠なく内側から湧き上がる意思(エネルギー)など古代の人間は持ってなどいなかっただろう。それは定住が我々に強制した概念である。動物でもある人間が、端的な「意思」などという感受性を持つはずはない。「意思」も社会的な産物でしかない。だからこそ、意思(作為)を発露したい自分としては、矛盾に身を置く必要を強く感じるのである。矛盾とは内面の悲劇に他ならない。内面の悲劇をこそ特定したい。

内面から無限に湧き上がる便利な核燃料など人間にはもともと備わっていないのである。だから、論理学をベースにする西洋二元論的な思考では「意思」を記述(イメージ)することは不可能である。割り切られた、物理的に取り出せるような「意思という名のカタマリ」を想像していると、「意思」は逃げ水のように私たちの手をすり抜けてしまうのみである。

だからこそ、である。

私たちは内省の際にぶつかる能動と受動の矛盾(悲劇)を廃除してはいけないのである。「これは自分の意思なのか、それとも、誰かから思わされているのか」という極点に差し掛かったら、苦しくともそこに留まらないといけないのである。とどまった状態を維持し、そして、そのあるかどうかも定かではない「意思」を、そのままの状態でその外側に拡張しなければならない。自分の意志の起源を探ると同時に、それでも端的な「意思」の存在を肯定しなければならない。何か超越的で大きな力に動かされているという感覚に襲われても、そこに逃避してはいけない。それは、結局は思考停止であり、動物的な要素に内面が巻き込まれてしまうだろう。内省が元気の源にはならない。

それでも人間は矛盾や混沌を嫌う生命であろう。サイコロのようなランダムには耐えられない。しかし、整理整頓された世界を求める衝動に負けていては自身の動機は保てない。モチベーションは矛盾と混沌の中からこそ湧き出る「不思議」である。はらわたをよじるようなギリギリの内面の格闘の中にこそ、理由なきエネルギーは隠れているのだと思う。目の前の俗なタスクに注がれる無限の熱情は、きれいな理屈からは決して生まれ得ないものである。実行と構想は決して淀みなく同居するものではない。しかし、同居させ続けなければならないのである。それでしか、自身が虫のような、植物のような存在に成り下がることから逃れられないのである。「意思」なき人間は近代社会では即、フリーライダーである。

理想をデタラメなこの世界に実現しようともがくことである。理念とは、決して届かないもののことをいう。ロマンとは、不可能性のことである。内省とは本来不可能な作法の中にある。ことばは全て他者のものでしかないけれど、私たちはかさね書きをし続けることでエネルギーを手に入れることしか許されていないのである。ことばを紡ぐことを諦めてはいけない。違和感をことばにする動機は、その行為そのものの中にしか生まれようがないのである。われわれ近代人の動機は内面の悲劇の中からしか生まれ出ない構造である。無謀と言われようと夢を描け!である。

 

M・V・S(Mission・Vision・Strategy)

経営学的な用語を使えばそれは、ミッション・ビジョン、そして戦略・バリューなどということばで考えるように教えられる領域ということになるだろう。あまりにも単純化して捉えられているような気がして違和感も残る。しかし、多くの人と協働する会社という枠組みでは、その極端な単純化も致し方ないことである。単純化は目的ではなく手段であることに気を付けたい。必要なのは、自身が「思考停止」に陥らないようにすることであろう。共有のための単純化は、個人にとってはエネルギーを枯渇させる運動である。「内省」と「共有」のベクトルは、おそらく180度の反対方向である。

だから、M・V・Sは、書かれたことばを暗記しようとするのではなく、自身の内省の矛盾の中にそっと位置付けてあげるように、丁寧にかさね書きし続けることこそ肝要である。原理的にはそれしかM・V・Sなるものに迫る方法はない。M・V・Sは、数学のように明確な理念ではなく、ベンヤミンのいうアレゴリーであるのだろう。それは構成的ではなく統整的な理念である。私たちにできるのは、決して届くことのない理念(Mission・Vision・Strategy_Value)を、ロマン主義的に追いかけ続けることのみである。自らミッションを実装しようと企てることである。「企て」なきものにMission・Vision・Strategy/Valueの腹落ちは訪れない理屈である。

 

解けない問題を解けないまま抱え続けること

「内省」と「エネルギーの発生」と「近代」と。それらが「いい会社」を作り出すキー概念であると思う。会社はもともと近代が生んだ概念である。ウェーバーが指摘したキリスト教予定説を思い出そう。明治維新では吉田松陰が体現した心の構造である。

ことばは、真理を記述するための道具ではなく、真理に近接するための道具である。違和感をことばとして紡ぎ続けよう。

解けない問題を、むりやり解こうとしてはいけないのである。それは思考停止への誘惑でしかない。思考停止は、サザエさんを見た時のような「いつわりの幸福感」を与えてはくれるが、私たちの近代社会ではそれは、巡り巡って弱者を痛めつけるメカニズムを生む。アイヒマンは善人であったことを忘れてはいけない。内面のサザエさんは近代の幸福ではないのである。「これはこうこうだから」ということばで明示できる「論理的納得」は思考停止への入り口でもある。ものごとは常に多面体である。気を付けたい。

 

どこまで行っても矛盾の中に留まり続ける勇気。内面にどうしようもないアンビバレントな感情を抱え続ける勇気。それが近代人である我々に、無限のエネルギーを与えてくれる正統な原理なのである。他者から搾取せず、世界との調和を犠牲にしないまま、自身が力(パワー)を手に入れる方法論なのである。

 

経営という俗な「場」に居ながらにして、右にも左にも決して極端に振りきって割り切ることなく、本当に大切な問題にどこまでも誠実であること。俗世界で企てる人間(被害者ではなく加害者)が「もっとほんとうのこと」を求め続けること。それは解けない問題を解けないままに抱え続けることをも意味し、自身の内面から無限の衝動を生み出すことをも意味している。それが「近代の鉄の檻」に閉じ込められた、「物象化」のメリーゴーラウンドの中に生きる以外に方法がない、それでも正義に生きようとする、私たち21世紀の社会に生きるものの宿命であると思う。

 

凛として生きたいものである。

凛とした会社でありたい。

だからもっと、「もっとほんとうのこと」を。