中計、最後のピース

中計、最後のピース

軍隊型(ピラミッド型)か指揮者型(オーケストラ型)か

中計の議論を重ねる中で、なにかひとつ決定的に足りないものがある気はしていた。実は、それが何かもわかっていた。それは「ミドルマネジャを置くべきか、自分が直接現場に出るべきか」という問いに集約される。なんとなくぼんやり、「ピラミッド型組織」を描いて満足している場合ではないのである。そんな抽象的な段階に留めていて、競争優位が築けるはずもない。「社員を育てる」という大義を隠れ蓑に、現場現実を分析することから逃げてはいけない。問題は社員ではない。問題は、今、私が何をするべきか、である。

商品企画や購買、CS、アフターサービス、人事、経営企画、管理会計などの「入れ物」を並べて、マネジャを置くだけでは数字は作れない。そんなこと当たり前である。しかし、それに逃げてしまう自分がいる。ミドルマネジャが何とかしてくれるのではないか、そんな無責任な妄想を抱くことがある。しかし、そんなこと幻想でしかない。

もっと、手触り感のある「具体的で目的のはっきりした活動」に落とし込み、そのうえでミドルマネジャを置くなら置く、という決断をすべきなのである。つまり、数字を作ることの力の源泉である市場での競争優位を達成するための「卓越すべき活動」を「分析」して鮮明にしなければならない。はっきりと取り出して検証できるようにしなければならない。その設計は社長にしかできない。

つまり、「活動分析」がおろそかな部分に関しては、いったん、社長である私が現場に出張り、仕事を分析・再設計する必要があるということである。「判断ポイント」を結節点に「活動」をフロー化し、果たして誰がどんなタイミングで「意思決定」すべきか、そして、どうやってそれを検証可能にするのかを「決定」すること。必要であれば自分自身が「判断」することを「決める」こと。活動相互の「関係性」をも考慮に入れながら意味のある(つまり、時間と共に競争優位が作られていくように)活動の束を「日常の仕事」に仕立て直さなければならないのである。

社員は仕事を隠したがる。社長に知られないように隠れて処理したがるものである。そうした態度がなくなり全社のことを自分自身のことに優先させられるのは40歳も過ぎたころ、ではないか。それでも相変わらず抱え込むものも多い。これは社長から見た景色である。社員にはちょっとわからないだろう。社員はただ一生懸命にやっているだけだと思っていることだろう。むしろ社長に邪魔されていると感じてしまう。しかし、それが全体性をゆがめるのである。もっとも高度なビジネスの知識ではないか。

それをそのままにさせてはいけない。強引にでも、報告させ明らかにしなければならない。それを怠っていたからこそ、試運転に入り巨大な困難に直面することになったのである。悪いのは社員ではない。若い社員にはわかりようがないのだ。悪いのは社長である私であった。

「そもそも私と現場の間に社員を挟む必要がどこにあるのか?」それで数字は作れるのか。それが分析的に問われていなかったのである。間に社員を挟んだ方がうまくいく場合とはどんなときなのか。それを鮮明にしなければならない。もし、間に社員を挟むだけでコミュニケーション・コストが10倍になる(すなわち、スピードが十分の一に落ちる)としたら、それは課題がその社員の手には負えないということを表している。社員の責任というよりむしろ「仕事の設計の不備」である。ゆえに、ミドルマネジャを交代させるというより社長が現場に出向いて全力を尽くすべき場面である。社長が腕まくりしてベテラン社員を使い、情報を集め、分析し、設計し、意思決定しなければならない時である。逃げてはいけない。

ミドルマネジャを置いてよいのは(つまり、ピラミッド型組織を部分的にでも選んでよいのは)

 

一、仕事の設計がすでに鮮明であり

二、業務が労働集約的な性質を持ち

三、しかも、内作すべきほどその活動の付加価値が高いとき

 

だけ、である。何人もの社員が長期間にわたって作業に携わらなければならないと意思決定した場合だけである。コツコツカツコツが強みになる時だけといえる。(すなわち、企画職の内訳=知識労働+サービス労働、という場合のサービス労働のこと)

 

足りなかったものは、結局、わたし自身の覚悟であった。中計最後のピースは私自身の腹くくりであった。細部に至るまで事業のすべてを考え抜き知り尽くす覚悟。妥協せず、わかるまで脳みそをひねる勇気であった。この事業に関しては自分が世界で一番わかっている。その能力を最大限発揮させる体制(=活動の束)を作ること。それが最後のピースだったのだ。

 

「活動分析」「意思決定分析」「関係分析」の成果

まだまだ分析途中ではあるが、2週間現場に出てみてすでに浮かび上がってきたものがある。「活動分析」の成果である。それを「活動連環図」という図にしてみた。これは私たちの事業だけに適用できる活動パッケージである。

競合に見られたらえらいことになるのか?いやそうではないだろう。競合が見たところで競争優位のポイントは、徹底した実行そのもの、具体的な価値を作り出す活動そのものにかかっているのである。トヨタが工場や生産方式を惜しげもなく公開する理由はそこにあるのだろう。抽象的な仕組みに競争優位が宿るわけではない。「具体的な活動そのものの質」にこそ卓越性は宿るのである。

活動分析の段階で重要なのは、私自身が鮮明に理解し続けられるのか、変化に迅速に対応してこの「活動連環図」を深化・発展させられるのか、であろう。そのために社員に現状の分析経過を公開すること。公開して批判を受けることであろう。私自身を逃げ場のない場所に追い込む必要がある。創業社長に苦言を呈するものはいないのである。

 

優先順位は何か?

具体的にはやはり活動のポイントは基幹システムの開発である。その基幹システムを開発するための業務分析(=活動分析)である。そして、その核になる活動は「購買」「品質管理」「アフターサービス」である。これらの活動を基幹システムに乗せようと目論む過程で、自然と「活動分析」「関係分析」「意思決定分析」の主要パートが遂行される。そして、結果的に「在庫戦略」「物流戦略」「調達戦略」、結果的な「利益計画」がマネジメント可能になっていく。

それが指揮者にとっての優先順位になる。赤い矢印で示した通り、基幹システムサイドに関心の中心は置かれることなる。割かれる時間も自然とそこが多くなる。

 

また、意思決定の9割は定型的なものである。ゆえに出来るだけ現場に近いところで行えるようにする方がよい。スピードの面でも、現場社員のモチベーションの面でも、である。しかし、それが定型的なモノかどうかは「活動分析」をしてみなければわからない。すでにそれが現場で行われている定型的な意思決定だったとしても、そのやり方で他の活動との関係に問題は生じていないのか、また、本当に得たい成果につながっているのか、はわからない。いやむしろ、長く事業をやっているとしたら疑ってかかる必要がある。もう一度、原点に立ち戻って業務フローを見直す必要がある。

 

『CEOの内省』の中身を日常に引き付けることも

これまで、この『CEO内省』のネタは、資本主義や民主主義の分析、ニュースの分析など、社会科学系の、どちらかというと学者的な話題に題材の中心を置いてきた。そのほうが書きやすかったというのもある。基幹システムの開発に目途が立たなかったということもある。でも、本当はそのほうが気が楽だったというのが正解なのかもしれない。徹底的に「数字を作ること」、それと格闘する中で感じたこと、新たに分かったことに向き合い続けるのがしんどかったのである。端的に、数字を作っていく過程で生じる社員との軋轢がきつかった。それを文章に落としていくことで正面から向き合うことを避けてきたのかもしれない。少し遠めの話題を書くことで「わかってほしい」と暗に伝えたかったのかもしれない。仕事ってのは、そんなものじゃないんだよ。数字で結果を出すってことはそんなホカホカしたものじゃない。もっとヒリヒリとしたものなんだよ・・・

 

わたしは創業21年目を迎える創業社長である。事業規模は100億に迫る。しかし、まだ経営が何たるかわかっていないのかもしれない。最近は、そんなことを考えていた。自分の中に感じるちょっとした違和感を、まだ、すべて瞬時にはことばに置き換えられない。鮮明な物語りとして語り尽くせない。決定的なことから、まだ、逃げている自分がいる・・・

でも、これでは我々の事業は目標に届かない。

やりたいことはできやしない。理想的なブランドなど作れやしない・・・

 

今日は日曜日だが、自分の仕事の不甲斐なさが頭の中をぐるぐる回って休めない。自分はまだまだ未熟な経営者でしかない。もっと努力が必要である。

 

中計_最後のピースを埋めるべく、最近、現場に出て一番感じていたことである。

社員は聞きたくないことかもしれない。20代の頃の自分もそうだった。若いうちは見境もなく、傲慢なものであるのか。

社員という立場の人は、どんなふうに感じるのだろうか。