「反省」ではない。「検証」をこそ。
反省とは卑怯な振る舞いである
日本人は反省が好きである。しかし、それがどんなに卑怯な振る舞いであるかについてはまったく気が付いていない。「俺は(私は)まだまだダメだぁ」と思うことは、休憩ではあっても問題解決ではない。「自分はなんでダメなんだろう?」は、自分を弱者に位置付けて努力を免責してもらう卑怯な振る舞いである。それは弱者戦略とでも呼ぶべきもので、安全地帯へ自分を逃がすうまい方法でしかない。反省とは端的に自分に対するご褒美である。本当に社会貢献を考えている人、全体の幸を考えている人、自分可愛さではなく顧客価値の向上を考えている人は、決して反省などしない。全体目的を見つめる人は、反省ではなく「検証」、別のいい方を使えば「現状分析」をして前に進もうとする。反省は停滞であって、創造的な活動ではない。反省は無駄であることを知るべきである。
「全体の目的」を見つめている人が失敗しないわけではない。知らないことがないわけでもない。失敗は人の何倍も、知らないことも山ほどあることを自覚している。反省が習い癖になっている人よりはるかにしっかり自覚している。しかし、だからこそ反省ではなく検証するのである。ダメな自分など大前提である。自分がダメだからやらない・できない、ではなく、「なら、こうしたらどうか?ああしたらどうか?」と考えるのみ。どうしても自分で出来ないのなら出来る人を探し出せばいい。社会全体にとっては、なにも自分がやらなければいけない、などとこだわってはいない。社会貢献的な結果が出ればいいのである。自分がヒーローになる必要などない、そのことに気が付いている。常に目的は「自分」ではなく「全体」である。
出来ない理由(反省)ではなく、突破する方法を考える(分析)のが作為
目的をまっすぐに見つめて、そこに至る方法を懸命に考えるのみ。たとえそれが困難な道程だと感じても、そんなこと関係ない。ただ、課題を突破する方法を考えるのみ。失敗したらどうしよう、出来なかったらどうしよう、何か悪い結果が生まれたらどうしよう、などは、たとえ頭に浮かんでもすぐに搔き消すべきことを知っている。社会貢献的な人は結果を必要以上に気にしない。結果には直接手で触れられないことを知っている。出来ない理由を考えることなど無駄な時間であることを知っている。常に今置かれた位置から前を見るのみ。
出来ない理由が頭に浮かぶのは、言い訳を探しているからである。失敗した時の言い訳を探している。あらかじめ、失敗した時のためにアリバイを作っておこうという浅ましい自分がそこにはいる。そうした「在りよう」が染みついている。それが自分という存在の在り方になってしまっているのである。生きる動機が、常に自分自身の安心・安全・便利・快適になっている。公(おおやけ)への貢献など考えたこともない。社会貢献など口だけでしかない。口にする社会貢献はシニフィアンであってシニフィエではない。「あなたの社会人としての目標は?」と聞かれて、「社会貢献です」、と答えておけば、何もやらなくても日本では免責されることを知っている。日本人はみなそうだからである。
第二次世界大戦の敗戦の時もそうだった。広島の原爆公園の石碑には「二度と同じ過ちは繰り返しません」とだけ刻まれている。これは反省の弁ではあっても、どうしたら二度と同じ過ちを繰り返さなくて済むのか、という検証ではない。反省して、免責されて、「はい終了!」の典型的日本人像である。そうして、何度も何度も、同じ過ちを繰り返す。
日本人はそれで構わないのである。公(おおやけ)がどうなろうと知ったことではない。社会調査指標にもはっきり表れている。自分が免責されればいいのである。戦争が起ころうが、災害が起きようが、所属する会社が倒産しようが基本お構いなし。自分に被害が及ばなければそれでいい。日本人に「公(おおやけ)」はない。あるのは浅ましい「私(わたくし)」のみ。そこに社会などない。そこにあるのは自分の居場所のみである。
強い人がいるのではない、自分を習慣づけている人がいるだけ
反省したがる人は、問題解決の人に向かってこういうのが癖である。曰く「あなたみたいに強い人ばかりじゃないのです。弱い人の方が多いんです。努力したくても出来ない人の方が多いんです」。でも、反省したがる人は、問題解決の人の内面の葛藤は想像したことがない。するつもりもない。なぜなら、「反省」は、自分を正当化するのが目的なのだから、問題解決の人が自分と同じ弱い人では困るからである。問題解決の人には「あなたは強い人・すごい人」というレッテルを貼って場外へ追いやる。自分を免責ポジションに据え付けて高みの見物を決め込む。自分は何があっても免責ポジションから出ようとしない。反省の人はどこまで行っても浅ましい。
でも、問題解決の人が決して強いわけではない。生まれつき強いわけではないのである。そうではなく、数々の失敗から反省が無駄だと知っているだけである。反省するくらいなら検証して改善すべきだと知っているのである。意識を集中させるべきは検証・分析の「技術」であって、「できない理由」を並べることではないことを知っている。問題解決の人は、反省する前に事実の分析をすでに始めている。ダメな自分を意識するのではなく、突破する方法論を求めている。反省したくなる気持ちも理解できるが、それは贅沢な時間だと思っているだけである。ただ、そうした思考習慣が身についてしまっているだけである。結果、周囲には強い人として現象するだけである。「内面」と「見た目」はたいがい一致しない。通常、真逆である。
日本人は恥を知るべきだと思う
反省は休憩ではあっても、刷新ではない。社会のエンジンにはなりえない。日本人はそろそろ「反省」をやめなければならない。浅ましい自分を恥じるべきである。
「出来ない自分」に意識を向けて免責されようとする浅ましい振る舞いから卒業したいものである。反省ではなく未来を作る作法を身に着けよう。それが検証・分析という近代の作法である。「神の目」という俯瞰した視座で状況を見る。そして、現状を突破する方法=仮説をこしらえる。それが社会を動かす原動力である。反省は、心地はいいが役に立たないことを日本人は知るべきである。
一億総反省社会のわが祖国ニッポン。そうしたことを指摘する人はとても少ない。でもそれは、その事実を知らないからなのではない。自分自身が責められるのが嫌だから見て見ぬふりを決め込んでいるのである。自分も浅ましい、だから他者の浅ましさも見逃して、逆に責められないようにする。そうして一億総反省社会は絶妙なバランスを保って維持し続ける。専業主婦になりたがる人間が21世紀になってもなくならない原理と同じである。
そうして日本は戦争に負けた。今、コロナ禍に負けている。注射が打てないのではない。私たちは戦争に負けたのである。
日本人よ、そろそろ自覚しよう。
わたしたちは徹底的に浅ましい民族である。