「作為」を持つ技術_科学的思考⓫
日本人には「作為の契機」が不在である
なぜ世界の中で、日本だけがコロナ対策がうまくできないのか。ワクチンひとつ計画的に打てないのか。少子化対策に無策を決め込むのか。景気が30年以上、上向かないのに国民は黙っているのか。なぜ、夫婦の仲が悪いのか。なぜ、家庭はつまらないのか。なぜ、理由なき殺人が起こるのか・・・。国連や人権NGOアムネスティなどにおける日本の調査数字は、どれも世界最低水準を指し示す。親を尊敬する子供の割合も世界最低である。かの中国よりも圧倒的に低い・・・。
それは「作為の契機」が不在だから。
それが学問的な帰結である。20世紀を通して社会科学的に徹底的に研究された結果である(『痛快!憲法学』小室直樹著に詳しい)。民主主義も資本主義も「神の目」に対する恐れがなければ絶対に育たない。道徳心も倫理観も、「神の目」に対する恐れ、すなわち、「絶対的な権威の存在」が可能にする。人間には自由気ままに生きる権利などない、そうした、強烈な外部規範が近代社会を生み、科学技術を発達させたのである。
日本人は、神様は拝むもの、と考える。初詣は今でも国民的行事である。しないとなんだかキモチワルイ。なんだかよくないことが起こるかもしれない、そう考えてしまうのが日本人。しかし、こうした感覚そのものが社会を根底から蝕んでいく。近代社会を切り開いた革命の英雄たち(プロテスタント)は、神を拝んだりしない。神は絶対的な力を有する恐れる対象である。自分の内面は、いつも神に見られている。不道徳な「思い」を抱けば最後の審判で地獄に落ちる・・・。
日本にもデモクラシーが芽生えた時代はあった。大正デモクラシーと言われる時期である。この時代、明治維新から近代化に邁進した新生日本国は、大日本帝国憲法のもと教育改革を断行。キリスト教の神の下の平等ならぬ、天皇の下の平等を実現していった。伊藤博文を中心とする明治政府は、キリスト教の基盤のない日本社会において、天皇を絶対的な権威に据えることで「作為の契機」を人工的にこしらえたのである。その結果、日本は歴史上、最大級の国際的地位を獲得するに至る。日露戦争での勝利はその余波であろう。
その社会基盤を第二次世界大戦の敗戦で失うことになった。アメリカによるWGIP(War Guilt Information Program:戦争責任は日本国民自身にあるという罪の意識を植え付ける占領政策)が功を奏し、日本人は急性アノミーに陥ることになる。天皇という権威を失った戦後の日本人は、生きる上での東西南北・前後左右を消失し、無規範民族に堕落する。社会的ポジションを唯一の「権威」と穴埋めし、現代に至っている。大きな権威が不在だと、人間は不安から何かほかの代替え物を権威の座に据える。人間には仰ぎ見る天と踏みしめる大地がどうしても必要である。規範という方向感覚を失った人間は快楽を求めて、また、不安を解消するためだけに、右往左往する・・・。
それは現代まで続いている。それが日本の政治がうまく回らない根本原因である。どうしようもない政治家は、どうしようもない国民が選んでいる。民主主義における主権者は、わたしたちひとりひとりの国民である。
社会科学の成果は、こうした日本人が置かれた構造的困難を明らかにしてくれた。しかし、そこに明確な処方箋はない。戦後、日本の学校教育はその羅針盤を失い、先生も親も、座席争いこそ教育と勘違いした。本来、教育は社会のためにあるのだが、今の日本では、教育は自分の将来の社会的ポジション獲得のためである(これも国際的にはとても珍しい)。
それでも、日本が辛うじて体裁を保っていられるのは、企業が民主主義教育を代替えしているからではないか。なんでもかんでも企業に押し付ける政府が後押しする形で、企業経営者は孤軍奮闘、会社を倒産させないために社員を一から教育する。新卒で入社させ、当事者意識という名の「作為の契機」をこしらえようとする。世界で新卒をこれだけ採用するのは日本企業だけである。
本当は教育改革こそデモクラシーの根本的解決を生むものだが、それが叶わない今、頼りは経営者による創意工夫しかない。社員を一から教育しなおすことでしか、日本のデモクラシーは保てない。日本社会は、心ある企業経営者の努力にかかっているのである。
日本でも、事業でならデモクラシー教育が可能である
デモクラシーの基盤を失ったという学問的分析・研究と、企業の現場をつなぐ理論研究は存在しない。ビジネスはビジネス。社会科学は社会科学で、没交渉である。しかし、経営者が社会科学の成果を自ら学習すれば、その限りではないのではないか。学者がゼミなどを活用してデモクラシー教育を実践するかのごとく、毎年入社する若い日本人を教育していくことが可能である。
「教育」などというとおこがましいかもしれない。実際、私も「教育」ということばは使わない。それよりも何よりも、「作為」を持ってもらうこと。「社会は自分の手で変えられる」と思ってもらうこと、それが目標である。資本主義と民主主義は、元来、双子なのである。歴史的経緯は同根である。業績を上げることと、デモクラシーを実現することは、同じ根に発している。だとするならば・・・
それは会社においても十分可能であると思う。
「作為(社会は自分の手で変えられるという実感)」を持つにはどうすればいいのか。その技術的な方法論が議論の焦点になるだろう。
まずは、霊感を信じて「仮に〇〇が〇〇なら、数字は2倍になるはず」と言ってみる
理論より実践。「作為」を抱く訓練を繰り返すことが肝要に見える。そう考えると、中期経営計画の合宿、わたしたちが気が付いた「仮説出し」のチーム議論が参考になる気がする。「作為を持とう!」と声高に叫ぶよりも、「仮に〇〇が〇〇なら、数字は2倍・3倍になるかもしれない」という「仮説」を実際に考えてみることである。これは効果が抜群だった。
わたしたち日本人にとっては、こうした「仮説出し」のシミュレーションですら勇気のいる作業である。それは合宿で証明された。社員はみな、ことばにすることそれだけで恐怖を感じてしまっていた。しかし、それでいいんだ、間違ってもいいんだ、という精神的安全を「場」に確保してあげることで、そうした恐怖はいとも簡単に乗り越えることが出来たのである。日本人は潜在的に未来を変えることに恐怖を感じてしまう。でも、それは近代社会では致命的な病である。だとするならば、それを何度も何度も、シミュレーションで乗り越えてみる実践を繰り返せばいい。そのうち、その集団ではそれが当たり前になり、いずれ軽々乗り越えていく・・・。
要は心の習慣である、アンチ近代の心の習慣をぶち壊せ
わたしたち、戦後日本人の潜在的意識に巣食う「変えてはいけない」という「心の習慣」。それをぶち壊すこと。一人で難しければ、集団で、組織で、それをぶち壊せばいい。なにか突拍子もないことを口走ったとしても、ハブられることはないのだという安心感を意図して作り上げること。そして、「仮に〇〇が〇〇なら、未来は変えられる」と衆人監視の中、何度も何度も発言を経験すること。それでも大丈夫なんだ、自分の意見をみんなは聞いてくれる、と何度も何度も体験すること。それが「作為」を心に宿す「教育」なのではないか。天皇制と共に戦後日本から消え去り、今なお、社会問題の構造的な困難の原理となってしまっている「不作為」は、やはり、真逆の習慣が掘り崩してくれる。
なにも難しいことはないのかもしれない。要は、何を言っても罰せられないのだ、という安心感がそこにあるのかどうか。それが日本人が未来を自分の手で作る気になれるかどうかのカギとなるのではないか。それを合宿では実感することが出来た。繰り返すと段々、科学的思考にも慣れてくる。データの見方も、論理思考も、それそのものというよりもむしろ、大本の「変えてはいけない」という精神的呪縛を解き放つことにカギがあったのである。
「作為の契機の不在」は「仮説を持つ習慣」が乗り越える
戦後日本の民主主義不在を嘆いて死んだ数々の学者・研究者。日本人に共通する「作為の契機の不在」は、「カギの掛かった箱の中にあるカギ」のように論理的には解きようがない課題であると学問的には結論付けた。
しかし、理論より実践。事業の現場では、そんな嘆きは通用しない。不作為の人々をがんじがらめのルールで縛り上げることを考えるよりも、強権的でエネルギッシュな創業経営者が、あらん限りのパワーでリーダーシップを発揮するよりも、「仮説出し」の訓練を安心安全の「場づくり」の中で実現すること。そうすれば、戦後日本人の内面にも「作為の契機」は育つのではないか。経営者が求めてやまない社員一人一人の「当事者意識」も、「仮説出し」を繰り返せばおのずと育っていくのではないか。私はそこに大きな希望を見出した。
日本人は元来、優秀である。それは西洋人以外で唯一、近代化を達成した明治維新を思い出せば十分であろう。そのコツを、敗戦後、いくつかの手違いで失っただけである、そう考えよう。そのいくつかをわずかに穴埋めするだけで、日本人の優秀性は蘇る。「仮説出し」は戦後日本人がデモクラシーを取り戻すための処方箋であるのかもしれない。そんな壮大な妄想を抱いている。
いずれ結果が出るだろう。今から楽しみである。