「中期経営計画」と「日常」をつなぐ技術
それは端的に「仮説」をつくること
「中期経営計画」と「日常」は、どうやってつなぐことが可能なのか?「中計合宿」最後の課題であった。3・6・9年という時間軸の中で戦略的に数字を置いてきたのではあったが、果たしてそれがどうやって日々の目の前の仕事に繋がってくるのか?それが大問題であった。計画表をいくらながめてもそれは出てこない。でも、どうしても眺めてしまう、そうしたくなってしまう。でも、いくら眺めてもモヤモヤが残る・・・。何かコツのようなものはないのだろうか、今回の箱根合宿で考え抜いた「最後の問い」である。
その答えは意外なところに眠っていた。それが「有効で新しい仮説を生み出すこと」である。
「仮に〇〇が〇〇なら、〇〇は〇〇になるのではないか?」
という「ことば_淀みない文章」である。これが計画と日常をつないでくれる。無理に力まなくても、自然と現場の仕事は未来につながるのである。それに全社員が気が付いた。
「有効な新しい仮説を生み出すこと」と「神の目」の関係
成果をあげる近代人はみな「仮説」が頭の中を占有している。「仮にこうなったら、こんなにお客様が喜ぶのではないか?(=数字は2倍になるのではないか?)」という直感(=平たい感覚)からくる「仮説」である。仮に経験不足で現場の知識がなくても「工場ってこんな感じになっているはず!」「この数字の背景にはこうした問題があるはず!」と「仮置き」して、「これをこうすれば顧客価値が増えるはずだ」と、なかば強引な「仮説」思考を働かせている。
「仮説」を抱くと人はエネルギッシュになる。当事者意識を感じることが出来る。コミットメントしている自分がそこにはいる。
「仮説」を抱くとワクワク、ウキウキしたような気持ちになれる。淀みない文章で「仮説」が書けると、まだ実行していないにも関わらず、もう成功したような気持ちになる。世界は妄想(≒仮説)が変える!それに気が付くのである。それは近代社会の本質である。
モデルやフレームワークを使う前に、データを抽出して表やグラフをつくる・見る前に、出張や商談、お店を見に行ったりする定点観測をする前に、理論的な難しい本を読む前に、財務のお勉強をする前に、ドデカい目標を設定したい!動き出したい、と思う前に、「仮説」を持つことである。それも出来るだけ具体的な、問題解決志向的な、手触り感のある「もし〇〇が〇〇ならば・・・」を持つことである。すべての仕事は「仮説」から始まる。
「仮説」があれば・・・、今度は、その有効性や見込み数字、実効性の確認作業に移る。端的に何から手を付けるべきかを考える。その時、モデルやフレームワークといった「道具」が使えるのである。「科学的思考」と一般的にいう思考方法である。「神の目」で俯瞰して自分が思いついた「仮説」を取り巻く状況を捉えることである。「仮説」を位置付け(東西南北・前後左右をはっきりさせる)、メカニズムを捉えることである。それで手順やコスト感、作業工数の見積もりができる。「出来るだけ小さなパワーで、多きな成果(=顧客価値)を達成する」、その視点を加えてあげるのである。
もう少し正確に言うと・・・。仮説を、ニーズとシーズ(=「顧客の要求サイド」と「それを実現させるための具体的手段=供給サイド」)という言い方でまとめることも多い。実務上は、ニーズ(要求サイド)とシーズ(供給サイド)を行ったり来たりして(視座を180度ひっくり返して)、精度をあげる。そして、精度を上げると同時にニーズとシーズの連なり(=バリューチェーン全体)を俯瞰して、複数の「仮説」の優先順位をつける。難しく表現するとPPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)である。
あえて、素人風ベタベタに図にまとめるとこんな感じか。
これほど重要な「コツ」は、自分で図解や言い換えをしてみることだろう。手を動かすことが大切である。この図は、私の作品、つたないビジュアル作成能力で作ってみた。
時間軸を入れてみる_まず、何をやらなければ意味がないのか?
図は時間が捨象されてしまう。「要はどれから手を付けたらいいのか?」が明示できない。空間軸と時間軸を同時に表現する図解は困難である。図解することで、また、迷いだす。
一番先にあるのは「仮説」である。出来るだけ具体的な、問題解決志向的な、手触り感のある「仮説」を書いてみる。淀みない文章で書いてみる。「〇〇なら、〇〇のはず」の前半部分、「〇〇なら」を出すこと、常に持つこと。それがすべての始まりである。
要は、社会をこうやって変えていこう、手元の仕事をこうすることで・日常の活動範囲をこう変えることで・新しい仕事をこんな風に作り込むことで、顧客価値が上がるはずだ・数字が上がるはずだ、そう思うこと、と言ってもいい。「科学的思考」の文脈に照らすと「作為を持つこと」の技能編である。
科学的思考とは「作為」から始まるのであった。完全にパラレルである。というよりも、「仮説」を持つこと、それが「科学の原点」なのである。神に任せるのではなく、人間の手で変革させたい、それが中世が終わり近代が開けた根本的な理由であった。歴史上の革命家・英雄たちはみな「仮説」、しかも壮大な「仮説」を持ったからこそあんなにすごいエネルギーを発揮したのである。時代は「仮説」が作る。有効で新しい「仮説」が未来をつくるのである。神亡き後の、近代の作法である。
フランス革命も、アメリカの建国も、明治維新も、最初はかなり荒っぽい「仮説」からスタートしたのであろう。しかし、その「仮説」が人々を吸引し、次第に大きなパワーになっていった。
「有効な」と「新しい」の意味_「釣り堀り」と「エサ」のアナロジー
その「仮説」が有効であるかどうか、はどうやって判断すればいいのか?「新しい」とはどういうことなのだろうか。次にそれを考えたい。
「有効」かどうか問題。こう考える。「有効」かどうかを考えるための「科学的思考」である、と。モデルである、と。論理一貫性のチェックである、と。メカニズム思考である、と。
・何か見落としている点はないのか?_漏れなくダブりなく
・そもそも実現可能か?_シミュレーションを繰り返す
・自分の思考方法は近代のメカニズムに逆らっていないのか?_論理一貫性チェック
・ひとりよがりになってやしないか?_そのやる気は無明のなせる業ではないのか
・こだわりすぎてやしないか?_執着しているのでは?
・思い入れが強すぎたりはしないか?_自分が長く携わっているからではないか?
・ちゃんと、客観的に検証可能か?_KPIで測定できるか?
・全体、および中長期の計画に沿っているのか?_9年後から考えてもそれはいいことか?
こんな風に考えるのが「有効かどうか」の意味である。まあ、チームでやっても問題はない。コツは堅く考えないこと。
次に、「新しい」かどうか、はどう考えればいいのか?それは「釣り堀り」と「エサ」のアナロジーで説明可能である。要は、「釣り堀り」が「定義された市場」、「エサ」が「施策」、もしくは「施策のパターン」である。海のような広大な市場(海)で釣りをするのか、それとも慣れ親しんだ近所の「釣り堀り」で釣りをするのか、それを神の目でチェックする。
「A」の象限、「釣り堀り」も「餌(エサ)」も変えないのは仮説とは言い難い。「パクリ」か単なる「作業」である。企画職の仕事ではない。知恵のない会社、アイデアのない会社がやることである。かつて松下幸之助はこのパクリを正当化した。ソニーが出した新製品をパクるよう現場に指示を出していた。「マツシタ電気」ならぬ、「マネシタ電気」と揶揄されたことは有名である。では、幸之助がやっていたのだからいいのか?ポイントは時間軸である。短期的には問題ないだろう。たまにはそういうこともあるかもしれない。しかし、こればかりやっていると、その会社は死んでしまう。顧客から見放される。次第に市場は枯渇し、社内からもエネルギーが消えていく。社員の心から瑞々しいエネルギーは消え去り、AIのような無機質で面白みのない人間が増えていく。今の日本人の姿である。菅総理や安倍総理の顔である。「A」は絶対にダメ、とは言わないが仕事の中心ではない。評価の対象にはなりえない。
「B」と「C」の象限、「釣り堀り」が新しいか、「餌(エサ)」が新しい場合はどうだろう。これは一応「仮説」ではある。論理的には悪くはない。しかし、効果や成果と言った場合には、小さな仮説である。悪くはないが小さい。面白みに欠ける仮説と言える。ホームランではなくバントヒットのような感覚か。時には有効だが、いつもそればかりやっているとつまらない、そんな「仮説」である。(もちろん、仮説の粒度の問題は残る。今は商品企画のレイヤーで考えている。事業レイヤーでは「B」や「C」が中心を占めることが多い。理屈は同じである。考えてみると面白い。)
一番面白いのは、「D」の象限、「釣り堀り」も「餌(エサ)」も新しい、経験がない領域に踏み出すことである。これが最も望ましい。面白い。自分の経験したことのない業界や市場を想像力いっぱいに思い描いてみる。「多分、こうなっているはずだっ!」と仮置きして大胆に思考実験してみる。ならばエサはこんな感じがいいのでは?と、どんどん前に進む。一番、楽しい作業でもある。メンタルブロックを取り払い、大胆になるのである。
一見、「ない」×「ない」である右下の象限「D」は危険に映る。しかし、そうではない。仮説を出してそのまま論理的なチェックをせず実行したら、それは「無謀」以外の何物でもないが、論理一貫性を保てるならば、会社にとってはそれが一番安全なのである。なぜなら、そうした大きな「仮説」が消えた時、同時に会社は未来を失うことになるからである。未来は仮説があって初めて開かれる。そこに失敗はつきものである。会社の使命は、仮説をもって未来を切り開くこと。たまに起きる(よく起きる)失敗を取り返すために「利益」はあるのである。純資産はそのために積む。大胆なチャレンジをするために自己資本比率を高めるのである。
「投資」があって、はじめて「リターン」がある。「企て(仮説)」が「投資」を誘う。
「作為(=企て)」をうまくいかせるために、科学的思考が発達した
いうなれば「作為(=企て)」(=大胆な仮説=「釣り堀り」と「エサ」が新しい)の実現可能性を高めるために「科学」は発達したのである。チャレンジする人間は、同時に、確率を上げたいもの。大胆な人間は、同時に、慎重でもある。「大胆に考え、細心の注意を払って準備する」、こんなこともよく言われる言い回しであろう。成果を挙げる人の特徴である。科学は「作為」から始まった。歴史的な事実である。
これが「近代の作法」_でも、日本人はこれがわからないので社会をつくれない
この一連の【「仮説」-「論理一貫性のチェック」-「実行」-「検証」、そして、元の「仮説」の修正】の流れが近代の作法そのものである。「仮説・検証サイクル」といったりもする。これをループとよぶ。「シングルループ」「ダブルループ」のループである。エドモンド・バークはこれを「保守」と呼んだ。政治も基本は「仮説・検証」サイクルである。
一方、これを「マーケティング活動」というときもある。大胆な仮説が成功した時を「イノベーション」という言葉で表現することも可能である。すべて同じ意味である。マーケティング+イノベーション=近代の作法、そして、これを「意図して計画的に行う」ことがマネジメントである。すなわち、「中期経営計画」づくりの核心。
でも、日本人は、このダイナミックな動きをイメージすることが苦手である。どうしても物事を静止画で捉えようとする。未来に向けて自分の身を投げ出す、そんな感覚が抱けない。不安だからなのだろうか。自信がないからなのだろうか。それで自分を守ることばかりに意識が向いてしまうからなのか。きっと、そうなのだろう。でも、ならば、その不安な意識を消し去る工夫をすればよい。精神的な安全感を組織が確保してやればよい。それはトップの役割りであろう。私が合宿で一番、学んだことかもしれない。
私たちは「近代の作法」を身に着けることで「善き社会づくり」をしていこう
「善き経営」は「善き社会づくり」である。私は常々そう思ってきた。今回の合宿で、それを社員みんなで改めて始めたい、そう思ったのである。「善き社会づくり」のための「核心的技能」を伝えたかった。
「全社員企画職」それがこの会社のスローガンである。目標である。AI時代に人間が生き残るための方法である。未来をつくるための方法論である。近代社会において人間が幸せになるための方法論である。生きる実感を手にする方法である。資本制生産システムという鉄の檻の内側で、人間が「実存」を感じる方法である。「生き残ること」と「生きること」を両立させる方法である。夢のない人間が行くところと思われているカイシャというものを甲子園を目指す高校球児のような熱い集団に変える核心的方法である。
手触り感のある有効で新しい「仮説」を生み出す技術。
それが真の「勇気」である。鉄の檻の中にいて実存を感じる技術である。
これが「企画職」の核心的技術である。
3・6・9年という時間軸で損益を計算した「中期経営計画」の数字たち。それと日常の業務をいかにつなげるか?それは「手触り感のある仮説」を生み出すこと。仮説が「いける感」を「自分がやれる感」に転換する方法である。全身に力がみなぎり、当事者意識で自身を満たすための「接着剤」である。
「有効な仮説が世界を動かす。」
私たちの共通言語にしたいものだ。