「批判」と「非難」の微妙なカンケイ
批判精神とはメカニズムを検証すること
「批判精神」とは社会の歴史的・空間的メカニズムを検証する態度のことである。人間ひとりひとりを「メカニズム」のカタマリとして捉えて、その感情の働きや行動原理を社会システムの側から理解しようとする態度。その時、個人の責任は問うていない。その人が殺人事件を犯しても、それを個人の責任に帰するのではなく、社会に原因があるのではないか、としてそのメカニズムを分析・検証する態度のことである。「批判精神」とは、「分業し、全体をメカニズムで滞りなくつなごう」とする連関性(システム)に基礎を置く近代社会を刷新しようとする、その具体的方法論である。
私たち一人一人が生きやすい社会を作るための重要な”視座”である。
これは会社組織における仕事にも密接に関連するものの見方・考え方である。感情的にならず、問題を解決しようとする必須の方法論である。要素還元的に作られているAIには不可能。ホーリスティックな力を駆使する人間にしか出来ないことである。
ある特定の個人を責めることは「批判」ではなく「非難」である
一方、私たちは「ある特定の他者を非難すること」という意味で「批判」ということばを使いがちである。「あいつが悪い!」と特定の個人を責めること。誰もが納得するような「悪事」であれば、そこに躊躇はない。一時のスッキリ感を求めて溜飲を下げる。「責めてよい」と空気が認めた他者を探し出してする娯楽である。人類は昔から大衆の娯楽として処刑を公開してきた。それと同じ原理である。しかし、これは「批判」というよりむしろ「非難」と呼ぶべきものであって、本人のスッキリ感には役立つが、善き社会を作ろうとする意図には何の役割も果たさない。自分を安全地帯に置いて、存分に他者をいじめ抜く人間の最も醜い性質の発露である。大衆に迎合する日本のテレビ・マスコミの常套手段でもある。気を付けたい。(これもまたAIには出来ないのだろうが・・・)
批判精神=メカニズム思考なき人間は「タダ乗り」から逃れる方法はない
メカニズムそのものを「批判」的に捉えて議論することは近代社会に生きる人間の必須の作法である。そこにこそ近代の「正義」は隠れている。念を押すが、「非難」ではなく、「批判」である。「非難」は特定の個人をいじめること、「批判」は「出来事を取り巻くメカニズム」を検証すること、である。
当然、自分が置かれた「幸運」をもメカニズム思考で検証する態度が求められる。近代において個人の努力だけで「幸運な立場」を得ることはない。そこには必ず「偶然」というメカニズムが働く。それが数百年前の歴史の中だろうが、遠い異国の文化の中だろうが、である。
基本、日本で有利な立場にいる外資系コンサルや高級官僚などに代表される輩は、この幸運のメカニズムを利用する。頭はいいのでそのメカニズムに気が付かないということはない。気づいていながら、それにタダ乗りする。気づく人が少ないのをいいことに、密かに私腹を肥やす。メカニズム思考が出来ない人は、こうした「頭のいい」さもしい連中に搾取され続ける。今の日本の基本構図である。
気づかず「タダ乗り」する小さめの群衆もいる。「専業主婦」や、働けるのに働こうとしない「年金生活者」、そして「地方の小役人」などである。こうした人々は決して巨悪ではない。しかし、さもしい・浅ましいことに変わりはない。小さいけれども腐っていることには変わりない。
自身の「タダ乗り」に気を付ける心、それが批判精神=メカニズム思考につながる
「生きる権利がない」といえば言い過ぎかもしれない。しかし、そうした「タダ乗り野郎」には、豊かな生活を送る権利はない。それは私の意見というより、近代社会を営む上で論理的に導かれる結論である。近代デモクラシーが人権という概念を生み出したように、近代社会では、人間はみな生まれながらに平等である。だから法律で認められない限り他者の権利を略奪することは認められない。「タダ乗り」はご法度である。「専業主婦」を許す税制は、高度経済成長期の一時的な措置である。社会メカニズムを考えればもはや無用の長物でしかないのは明らかである。「専業主婦」は今の日本社会には必要ない。賞味期限が過ぎた単なる「特権」でしかない。
ことほどさように、我々、近代人は気づかず誰かに「タダ乗り」していることがとても多い。慎重に、謙虚に、社会全体のメカニズムを検証しないかぎり、自身を正義にふさわしい状態に置き続けることは叶わない。原理的に、一時も「タダ乗り」状態ではない、と言い切れる近代人はいない。近代社会が「分業」することに基礎を置く以上、必ず誰かの世話になっている理屈である。
病気になれば救急車を呼ぶ。火事になれば消防車。泥棒がいれば警察である。同じように、企業が稼ぐからあなたの生活が豊かになる。あなたのふところに金が巡る。誰かが農業をやるから食卓に食べ物が並ぶ。それは遠い外国の人々かもしれない。
近代とは分業に基礎を置く。だからこそ、「タダ乗り」する輩が発生する。それはカビや害虫のようなものである。原理的に防げない。しかし、私たちは人間である。昆虫や細菌のように、意思なき生物ではないと信じたい。
「タダ乗り」を防ぐ「批判精神=メカニズム思考」は、私たち自身が昆虫にならないための最低限の作法である。近代社会で人間でいるための最低限の作法である。