「八百屋」から「近代企業」へ_必要な本質的理解
今、目の前にある大きな課題
これは私たちの会社の話である。嘘偽りはない。
私たちが今、挑戦すべき最大の課題は、組織改革である。これは2年ほど前から明確に意識して取り組んでいる経営課題の延長にある。
今の私たちの組織はとても居心地がいい。社員も口々にそういっているのを聞く。組織がシンプルになり、風通しもよくなり、皆、楽しそうに仕事に取り組んでいる。しかし、その最大の理由は明確である(理由は常にひとつではないが)。「個別の人間が期限付きの明確な数字責任を持っていないから」である。数字は社長と一部の幹部のみがもつ。まさに店のおやじとおかみさんが、なんでもかんでもこなす八百屋スタイル。(「いや私だって考えている」そう思う社員も多いだろが「考えている」というのと「責任を持つ」というのは違う)
この「八百屋スタイル」の組織を、「近代企業」と呼ぶに耐えうる形式に変えていくこと。組織としての背骨を入れていくこと、それが、ここからの私たちの最大のチャレンジである。
組織の「近代化」とは、端的に明確な役割分担・責任分担である。そして、「組織としての背骨」とは、全社の明確な「計画」と明確な「組織図」、そして、単位ごとの「目標」と「評価指標」のことである。組織図というピラミッドは本質的にミッション・ツリーであり、その末端の最小単位チームの目標達成がピラミッド構造を押上げ全社目標を達成する、そういう体系図である。このミッションの体系たる組織図をある程度、堅いものとする。わざと少し融通の利かないモノにする。すなわち「背骨」である。当然、明確な副作用がある。風通しは八百屋スタイルより必ず悪くなる。それでも社会へ貢献するためには、通らなければならない道である。
この山にいったん登り出したらなかなか止められない。規律が組織のまんなかを通らざるを得ず、組織も牧歌的な雰囲気を失いかねない。業績も八百屋時代より危険に晒すことになる。リターンするかどうか実績として確定していない固定費を先に増やしていかざるをえないからである。誰しもが小さな目標を「期限付き」で抱え、必死にならざるを得ない。脱落者も出るかもしれない。
だから一方で、背骨を相対化して意識する力、つまり、メカニズム思考の訓練を「精読会」などでサポートしている。近代という時代を相対化する訓練である。法と法外の関係を相対化する。人間は法(=制度、仕組み)の中で目的だけ考えて動こうとすると、浅ましくなり生きる動機を失う。次第に人間としての魅力を失い、動物になる。いわゆる大企業病である。組織の近代化をベタで(=思考停止で)信じるとそうなる。だから「組織の近代化」を企てながら、一方でバランスを取るための施策を打つ。社員みんなが元気に、生き生きと毎日を過ごしながら事業ミッションに邁進できるようにするのが真の会社の使命である。
基幹システムの開発状況がスケジュールを動かしている
スケジュールを左右しているのは基幹システムの刷新である。2年半ほど前、開発途中のシステムを全廃棄し巨大な特損を計上する決断をしてから今の新システムに取り組んできた。それがそろそろテスト稼働の時期を迎える。それが次のフェーズに進む号砲となった。
10年以上前から近代企業への脱皮には挑戦してきたのだが、基幹システムの相次ぐ失敗でとん挫してきたのである。わが社にとっての鬼門は長らく基幹システムだった。合計で10億円近くをどぶに捨てた計算になる。
この2年間で取り組んできたことを一言で表すと「仕事をシンプルにすること」に尽きる。業務をシンプルにし、顧客ラインをシンプルにし、商品ラインも、組織も、人事制度もなにもかも、とにかくシンプルにわかりやすくすることを心掛けてきた。そして、そのすべてを新システムに反映させた。残るはSKUラインだけである。これは今後の3年で削り落とす。そして、私自身が前線に再び出ることを実行した。(この二つはニワトリ・卵だが)
いま、再び、攻めに転じるときである。
「近代」は憲法の中に「信教の自由」を閉じ込めた、「近代企業」はそのアナロジーである
近代企業のカタチを抽象化すると見えてくるものがある。それは、まさに近代社会の本質そのものであるということである。近代社会の本質は「形式論理の中に、生きるエネルギーを閉じ込めた」ことにある。それが近代の本質である。本当は「生き残ること」より「生きること」こそが人間の本質である。吉田松陰や坂本龍馬など歴史上の英雄を見てもそれはわかる。「生き残ること」の価値を「生きること」の価値が上回ったからこそ、命がけの革命が出来たのである。人間のエネルギーは、「生き残ること」ではなく「生きること」にこそある。宗教的形而上学性は生存を上回る。それが人間性の本質である。近代はこれを逆さにした。ゆえに近代は人間の生とは完全に矛盾する。根本的に人情とは矛盾するのである。それが近代の本質である。
アングロサクソン×プロテスタントが作ってきたイギリス、アメリカをモデルとする近代社会の本質は、政教分離にその端を発する。宗教を政治の中に閉じ込めた。
英語では憲法のことを「コンスチチューション constitution」というが、これは「構造」とか「構成」という意味の英単語で、「憲法とは社会の構造そのものである」ことを示す。憲法とは端的に社会構造を文字にしたものである。ゆえに憲法は本質的に人々の慣習であり、主権者である私たち一人一人の意思(思い込み)を一般化したもの、それが原理原則である。その憲法という「構造」の内側に「宗教の自由」や「思想・心情の自由」「表現の自由」を閉じ込めた。日本国憲法では、第19条、20条、21条である。要は、人間一人一人がよりよく「生きる」ことよりも、社会の形式を上に置いたということである。「生きること」の上に「生き残ること」を据え置いた。それが近代の本質である。近代とは人間性と矛盾する形式である。
しかし、人間は社会を近代化し、ある程度の規律化を許容したおかげで人口が増えたのである。そして、その人口を喰わせるだけの富の蓄積に成功した。人口と富もニワトリ・卵の関係だが、どちらにせよ、それを「近代」という。憲法も法治国家も、民主主義も資本主義も、そして、人間の内面までもがこの枠内である。
だから・・・
「近代とは心情的には絶望的な構造を有する」(これをウェーバーは「鉄の檻」といった)
近代とは出口のない無限ループ。それを知ったうえでどうするか。八百屋から近代企業へ、という場合、まさにそれが問われている。
八百屋は人情主体、近代企業は形式主体。
枠組みを作り、その枠組みの中でそれぞれの人間が努力するのが原則となる。人間を「あえて」入れ替え可能なものとして見る視点。それが近代企業の本質である。
形式の中に人間の生きたいというエネルギーを閉じ込める。
それが近代企業を目指すときの「あえて」抱える矛盾である。
八百屋は「三丁目の夕日」的、近代企業は「アメリカ海兵隊」的
会社を仲良しクラブで終わらせるか、社会貢献クラスターとして影響力を拡大するか。それが今の私たちに問われているのである。八百屋には映画『三丁目の夕日』のような牧歌的な雰囲気が漂う(実は映画は見てないが)。古き良き日本の下町風情であろう。世界中でこの姿は失われてしまった。いつかのヒット映画『ニューシネマパラダイス』はイタリアのこの風景を描いた作品である。
一方、近代企業はアメリカ海兵隊のような規律の中にある。人情の前に、先にあるのは「目標」と「評価基準」と「規律」と「役割り」。主業務は戦闘である。
でも、だからこそアメリカ人(近代人)は、ユーモアを大事にする。近代とは人間性を破壊する本質を持つことを知っているからである。
笑って近代と戦うのだ!人間の深い知恵である(メカニズムを一時的に、言葉遊びで脱臼させると人間は笑う)。
八百屋スタイルの組織に、近代企業の背骨を植え付けていくことは、こうしたことをも同時に意味するのである。まさに、チャレンジである。
近代企業のマネジャーは現代の英雄である
現実的に、近代企業に脱皮するには、かなりの数のマネジャーが必要になる。しかし、なかなか「なり手」がいない。もしくは、なってもすぐに投げ出してしまうか鬱になる。鬱にならないまでも、暗く元気がなくなる。
その理由は明確である。自分の人情と矛盾することを行わなければならないからである。そのストレスに一時も耐えられない。
近代社会における近代企業のマネジメントとは「いきなりトレードオフ」である。考えて、考えて、考えていったその末に、「結局これもトレードオフかぁ」というような性質のものではない。計画の一番の上流工程の段階から「いきなりトレードオフ」と対峙する。トレードオフとは、端的に解けない問題のことである。必要な妥協が迫られ続ける。
それは社員(自分や同僚・部下)の心情に現れるものである。トレードオフを発生させる源は「近代」という構造的な矛盾だが、普段、それは見えない。目の前で起こる出来事の中に解決の糸口を探す。しかし、絶対に見つからない。多くの人はここで、自分以外の他者や世間・政治などの権力者のせいにする。考えることを棚上げしてしまう。マネジャーがぶつかる壁である。
上場会社の中期経営計画が未達に終わり、下方修正を余儀なくされるのは、このトレードオフを最初に想定しないからであろう。トレードオフとは端的に組織内にいる個人個人がぶつかる「人情と形式論理」の矛盾である。
この矛盾にぶつかったとき、卑怯な人は「向き・不向きの問題だ」といって処理しようとする。強い人と弱い人がいるんだから仕方ない、そう言う。人間にはタイプがあるんだから。そういって逃げる。しかし、強い人と弱い人がいるわけではないのである。卑怯な人とそうでない人がいるだけである。浅ましい人と立派に振る舞おうとする人がいるだけである。
近代は形式論理の世界である。ゆえに、マネジャーがぶつかる知的・精神的課題は、立ち向かえば解けないものはない。近代社会の成り立ちやその歴史的経緯、そして、近代市場やその国独特の慣習などを考慮に入れれば、解けない問題はない。それは人文科学の成果が証明する。MBAを乗り越えて、学問全般を視野に入れ、自らの頭を使って考えるとき、それはおのずから姿を現してくれる。数千年にわたる人類の知恵は、私たちひとりひとりの体内にその萌芽を宿しているに違いない。答えは自らの内面にすでにある。
この「近代社会の構造的矛盾」を引き受けるのがマネジャーの役割の本質である。知的にも精神的にも、時代の矛盾(トレードオフ)を引き受ける役割である。解くのではない、引き受けて対峙し続けるのである。逃げないこと、やり続けることこそ価値であり、社会貢献である。
近代以前の社会には、巨大な存在感の個人がいた。古代や中世の英雄は、多くの国を支配下におさめ、多くの人々を経済的にも精神的にも導いた。しかし、近代社会が成立するにしたがって、個人の役割は低下していったのである。時代が今に近づくにつれて大物が出現しなくなってくるのは、人間の質の問題ではない。近代という社会構造の問題である。近代社会では、一人の英雄に時代の問題を任せてはいけない構造である。それは端的に独裁者を生む。ヒトラーや日本軍の暴走も、大衆の熱狂が生み出したものである。
現代の英雄はマネジャーである。古代や中世の時代に比べれば、粒はとても小さくなったが、それは人間が小さくなったからではない。それは人間の問題を個人ではなく、社会構造で解決しようと目論んだ結果である。私たち近代人は、目の前の問題をも、メカニズムで解決することを選択した。それが「今」という時代なのである。
マネジャーはメカニズムを読み解き、再設計し、人々に幸せを届ける。そうした現代の英雄である。だから、男性である必要はない。近代国家(特にヨーロッパの国々)では、すでにかなりの割合で社会リーダーは男女同数である。(国会議員の男女比は193ヵ国中、日本は堂々の163位!近代化が163位ということ。悲しむべき事実である)
結局、選ばなければならないのは「社会貢献か世間貢献か」である
私たちの目の前にある大きな山。経営的・組織的な課題は組織改革である。八百屋スタイルから近代企業スタイルへ脱皮することである。それは日本人にはとても苦手な作法である。顔の見える範囲の人間の心情を大切にすることを社会規範とする日本人にとって、近代とは「ケガレ」に映る。人間やめますか?近代やめますか?そう心の中をこだまするのだろう。
しかし、それは端的に思慮不足でしかない。考えが足りない。
教師や公務員が言う「カタギ」とは、端的に「タダ乗り野郎」でしかない。近代の正義は「成り上がり」の方にある。「ヤクザ」や「娼婦」の方にこそ、近代の正義はあるのである。そのメカニズムをとっくりと考えてほしい。
われわれ一人一人が選択を迫られているのは「身近な人と心地よく内側を向いて社会の問題に、そして、人類の問題に背を向ける」のか、それとも「社会全体のために戦うのか」ということである。卑怯に生きるのか、正義に生きるのか、ということである。
それがマネジャーを志すこと、または、そうした組織に自ら協力することに他ならない。
我々の挑戦の主戦場はやはり、私たち一人一人の心の中にこそあるようである。
主戦場は内面にあり。
近代という構造の中で、「損得」に生きるか、「正義」に生きるか。
それが今、私たちが直面する最大の経営課題である。
「乗り越えてみたい」、そう思う同志を求む。