【精読会報告】自己疎外の誕生~私がいなくなった日~

【精読会報告】自己疎外の誕生~私がいなくなった日~

何かが込み上げて来る朝に

『痛快!憲法学』 精読会の翌朝、興奮が冷めなかったからだろうか、今日は朝から目が冴える。そんな朝は、グラス一杯のお白湯とパソコンを抱え、バルコニーへ。

日の出を迎えながら、昨日を振り返ると、朝からエネルギーが湧いてくる。このことに気づいてからの朝習慣だ。(もちろん、飲みすぎた次の日には歯が立たないが。少しは自粛したいと思ってもやめられない私もまた、私だ。)

今年の夏、この朝時間のために、日光浴ができるバルコニー付き物件を求めて都内じゅうを探し回ったのが今となっては懐かしい。お湯が出なかったり、夜中はギシギシと物音がする、トラブルだらけのボロボロ物件だけど、みつけてくれた不動産屋さんには感謝したいと思う。

少し話がそれたが、そろそろ本題に入りたい。今の感情をことばにするなら何か。怒りのような、憂いのような、悔しさ、歯がゆさのようなものだろうか。とにかく、エネルギーがこみあげてくる。そして、今この瞬間も、昨日の精読会の興奮が冷めていない自分にちょっとしたガッツポーズ。そんな気分だろう。今回は、そんな社員が綴る精読会報告にしばし、お付き合いいただければ嬉しい。

エネルギー(怒り)の増幅装置としての精読会

昨日の痛快憲法学では、「第5章 民主主義と資本主義は双子だった」のパートを読み進めた。今の世界を覆う社会構造である、民主主義、資本主義、(国民国家)がどのような偶然の上に重なった偶然によって形作られていったのか。前の章のキリスト教必殺奥義「予定説」を踏まえたパートである。ここでもマックスウェーバーの切れ味鋭い学説をベースに、小室調でことばが綴られているのだが、そこに哲学、宗教など様々な角度からの代表上田の解説と、そこから芋づる式に探求している参加者を中心に場が生まれていく。参加者全員が今を生きる私たちが抱える生きづらさを超の付くほど論理的に紐解いていく。そんな場になっている。

3時間半の間に、全員で字面ではなくその意味を創訳していくのだが、自身の内面が2度も3度も書きかえざるを得ないような瞬間が何度も訪れる。そして、それぞれが持っている既存の知識・文脈に、新しい文脈が加わり、自分の認識を刷新する重ねかき(かさねがき)が行われた瞬間には何とも爽快な空気が流れる。腹の底からは、何かがうごめく音が聞こえてくる。そんなイメージだ。会の最後には、いい映画に出会えた後のような、すっきりとした表情で会議室から出ていく。

何より題材が題材だ。戦後アノミーを嘆く天才学者小室直樹。そのエネルギーに共振した代表のことば。最近は社員もその言葉に、共振の幅が以前にも増してきている気がする。この場に名前をつけるなら「エネルギー(怒り)の増幅装置」。ここでいう怒りとは、何だろう。どこに向けた怒りなのだろう。
それは、きっと、この国の、この世界の矛盾、そのデタラメさと、それを利用して、自分のご都合で動く心に対しての怒り。日本全国、津々浦々に張り巡らされた利権ネットワーク、天下り・・・。これらも、「人間疎外」の産物らしいということが腹に落ちた瞬間には、怒りが湧いている。

私たちもまた、同じ穴の狢だった。

しかし、そうやって怒る自分たちもまた時代が抱える 「人間疎外」のプラットフォームの中の住人。このことに気づきハッとする。自分では自分がその住人であることには気づかず、対岸の火事としてしまう。私たちはそういう生き物みたいだ・・・。この人間疎外もまた、人間が背負った原罪なのだろうか。(キリストの旧約聖書の創世記に綴られた、アダムとイブの楽園追放の物語では、エデンの園で禁断の木の実を食べたがゆえに、彼らの子孫である私たち人間もまた、生まれながらに原罪を背負ってしまっていると表現する。)あるいは、仏教でいう、「苦(生きることはそもそも辛い)」なのだろうか。そんなことに想いを馳せた。

こうして、近代の成り立ちを読み解いていくと、「俺たちは、なんとどうしようもないことに悩んでいたんだ。」と痛感する。参加している社員のだれもが、口に出すことはないが、「あなたもつらいよね、でも私もそう。一緒に頑張ろう」なんて声も聞こえてきそうだ。それが「慈悲」であることを今週は学んだ。一方で、「慈悲」というのは、つらいよね。大丈夫?という「同情」とは対極にある。そこには「よかった、私はあなたみたいではなくて」「良かった、自分は社会から認められてて。」なんて言葉が隠されているからだ。

自己阻害のゆりかご、近代資本主義

そして、「自己疎外」現象が誕生するまでのメカニズムへの理解も進む。キリストの予定説から立ち上がった近代資本主義。古くからモノやサービスが売り買いされるイチバはあったが、この予定説をきっかけに、現世はもちろん、金儲けも否定し、最後の審判の日まで、とにかく勤勉に一生懸命誰かのために働く。その結果が、売上になって返ってくる。返って来た売上をまた別の事業に投資する・・・。そうやって資本の無限増加サイクルは始まる。シジョウにおける価格は、需要曲線と供給曲線で決まるが、その需要と供給を結ぶ線が複雑に入り組んで、人間の操作できる範囲を超えたのだった。そうやって近代資本主義のシジョウはできた。

このように、人間の意思とは無関係に動くというのが、近代資本主義の本質。市場を操作しようと、人間の意思を介入させようと、その法則を前に報復を受けるということを歴史が証明していると小室氏は記す。(『日本人のための経済原論』より)その市場法則に普遍的な真理を追究するのが経済学。そして、その知識人の研究から事業でぶつかる壁に挑む武器(ことば)を探索し、現場で格闘するのが企業人である。私たち企業人が生み出すイノベーションだけが近代社会において会社に課せられた唯一の役割であり、それが社会貢献であるとドラッカーも言う。しかし、勘違いしてはいけない、と代表は解説する。イノベーションは社会を次のフェーズに進化させるからというわけではない。ただ、時代の偶然が私たちが生き残るためにイノベーションを要求するのだと。そう理解した。

そして、人類は自らの手で神を葬った。

変革、昨日よりもいい明日を、行動的禁欲をベースにしている予定説だが、そこから急速に科学は発達していく。産業革命や医学の発達の影響もあって、今や世界の平均寿命は70歳越え。世界の人口も増えに増える。それでも飢えることは無いだけの生産能力も備えることになった。科学の力で、次第に人間は人間を作れるようにもなった。そして、私たちは次第に思うようになる。「神はいないんじゃないか?」と。こうして、科学主義・合理主義に傾いた私たちを突き動かしていたはずの、頑張る理由(動機)になっていたはずの、神・信仰を自らの手で殺めていった。もはや形式論理の起点はどこにもない。「理屈と鼻クソはどこにでもつく」ということばが社内でもよく使われるが、真実はどこにもない。そうしてポストトゥルースの時代は到来するのだろうか?(ポストトゥルースについてはまだよく分かっていない。今回の大統領選を振り返りながら、探索したいと思う。)

ちなみに、戦後の日本でも同じ構造が潜んでいることも学んだ。天皇が人になり、社会における座席獲得競争を神格化したという、生きる意味を紡ぐことを投げうって、内面に他者を飼うことを当たり前にしてしまった、嘆かわしい状態である。これを「自己疎外」と理解した。

So What?社会のデタラメに気づいてしまったら

人は、生まれたら死ぬ。リンゴは木から落ちる。コーヒーに入れた角砂糖は必ず解ける。こうした法則と同じように、市場にも法則というものがある。市場を席巻する新サービスも、限られた市場を奪い合っていれば、補助金にぶら下がっていれば、やがて朽ち果てる。市場も、人間の生命も無秩序化、無意味化の方向に進んでいくエントロピー的だと解釈するのが、真理。でも、あえて私たちは意味を紡ぎだす。今この瞬間の快楽を捨ててでも、このおかしさに気づいたからには、逃げるのは卑怯者のやることだろう。世間は聞きたくない話には耳をふさぐし、見たくないものには目をふさぐ。社会学者 宮台真司氏の言う「チェリーピッキング」だ。「でも、それが、どうした?私はやるぞ。」なんて意気込んでも太刀打ちできない。寒い顔されて空気が凍るのがオチだろう。
だから、私たちは、自分たちの使命のために市場の法則には逆らわない。それを利用する。イノベーションの機会を探り続けるのだ。
この時代が抱える生きづらさに、少しでも抗い、自分の碇を下していけるような、そんな場になるような事業を作っていきたい。作っていかなければならない。

「お前がやらなきゃ、誰がやる?」

プレコチリコも、かさねかき日記も、まだまだ始まったばかりだ。
さて、頭は冷静に、今日も頑張ろう。