「空(くう)」に生きる日本人

「空(くう)」に生きる日本人

「空(くう)」の原理

引き寄せて結べば柴の庵にて解くればもとの野原なりけり(慈円)

1000年前の古い和歌であるが、この歌が「空(くう)」の原理を理解するのにはうってつけである。ポイントは「結べば」と「解くれば」にある。結ぶとか解くとかの動作をすると同じものが庵にも野原にもなる、そういう意味である。庵とはひとが住まう簡易的なおうちのようなもの。野原は野原、草木の集まりである。いうなれば両方ともただの草木。実は対象物は何も変わっていない。でも、こちら側の人間がそれをどう見るかで対象物はいかようにも変化してしまう、その例えである。人間のものの見方のメカニズムを草木に施す動作に例えている。この世は儚い夢である、その儚さの原理を総称して「空(くう)」というのである。世界に意味を見出しているのは私たち人間である。世界は私たちの意識が作っている。意識を変えれば世界は変わる。人間存在の真理である。

壁のシミが心霊写真に見えたり、ランダムな夜の星たちが水がめやオリオンの星座に見えたりすることも同じである。ハスキー犬も森の奥深くで出会えばオオカミに見えるだろうし、業界がそこにあると考えるのも、お金に価値を認めているのも人間の同じ性質によるものである。対象物に客観的な意味が備わっているのではない。意味を与えているのは私たち人間が宿す物語りである。世界の意味は人間自身が作っているのである。

「空(くう)」は仏教の中だけの原理ではない。存在の本質(メカニズム)そのものである。形式論理を是とする西洋においても、その存在原理は「空(くう)」である。日本以外では形式論理を貫徹しようとする宗教が発達しただけである。世俗の外側にいる神の存在が私たち人間に形式論理を貫徹させた。日本以外では形式論理が歴史を作った。

 

「空(くう)」に生きてきた日本人

ここ日本では、2000年前の有史以来、形式論理は無視され続けている。形式論理のカタマリである戒律を重視するインドの正統な仏教を、中国人である鑑真が伝えたそのあと、日本人である最澄や空海はそのほとんどを破棄してしまった。鎌倉時代の法然や親鸞がそれをさらに推し進め、現在の日本の在家仏教に戒律は全く存在しない。また、そもそも日本の統治システムは形式論理的には説明がつかないことが多すぎるし(一番偉いのが誰なのかが形式的にはわからない_天皇と征夷大将軍が典型)、昭和期の二・二六事件なども、決起した青年将校は同時に体制側の人間でもあった。襲撃事件のすぐあとに、陸軍の上層部と共に官邸を警護している事実が伝えられる。形式論理的にはまったく説明不能である。まさに、「結べば・解くれば」とその場その場の雰囲気で態度を変えてしまう。よく言えば柔軟、悪く言えば論理一貫性に全く欠ける。それが日本の歴史の通奏低音である。私たち日本人にとって大事なのは見えている範囲。その中での感性的論理の一貫性。全体は忘れてしまえばそれまでなのである。遡って確認し、全体の形式論理的な一貫性を保とうとする動機は全くない。それは日本人のエートスとして現在まで連綿と続く。

それは日本人が「空(くう)」に生きているからである。「空」の原理と形式論理は相入れない。正確には、日本は「部分的形式論理の世界観」というべきか。時間の継続性や空間の全体性は重要視されない。遠くの親友より近くの他人、それが日本人という原理である。

 

空気に支配される理由

日本人はよく空気に支配されているという。空気が読めない奴は今でも嫌われる、そういわれている。それは私たちが「空(くう)」の原理に生きているからである。形式論理的には一貫性に欠けるが、空を貫くという意味では、すこぶる一貫しているともいえる。大きな建物の中に、自由に小さな建物を建てる。こっちにも建物を建てる。会社の中に会社を作る日本人のなんと多いことか。派閥政治も同じ原理。本人は100%の善意である。ただ、全社の財務(国家財政)が視野にないだけである。見えている範囲では、確かに「善きこと」をしている。

日本人にとって最も苦手なのがThink different!というジョブズのことばの実践である。人と違うのがもっとも怖い。集団主義から出るのが怖い。それは同調圧力と言われたりするが、その根本原理も「空」である。でも、その時の「人」は「社会」ではなく「世間」という見えている範囲。論理一貫性というメカニズムが形成する「社会」より、見えている範囲の「世間」の論理が優先される。巡り巡って、自分自身に災いが降りかかると説明を受けても、今それを忘れることが可能なら、やはり目の前の事実(世間)が優先される。それが「空」を行動規範にした場合の帰結である。目の前の人に嫌われないために、私たち日本人の意思は右へ左へ揺れ動く。

 

日本人は国家の運営が苦手である

形式論理を無視すると、近代社会の枠組みは簡単に崩壊することになる。近代社会の大前提である「国民国家」「民主主義」「資本主義」は形式論理の成果である。国家の構造を成り立たせている「憲法」や、資本主義の要である「自由市場」の扱い方、民主主義の原理である「熟議」も、形式論理をベースにした論理一貫性を重要視する姿勢がなければ簡単に無視されてしまう。形式論理を大切にする大多数の国民のエートスがそれを支えているのである。日本で菅政権の支持率が高いのは、形式論理的には説明不能なのである。自分たちを不幸にする政治判断を支持するのは形式論理的には矛盾である。

形式論理は「空(くう)」の原理を受け付けない。あたかも巨大な建造物を作っていくように、四角い石をひとつひとつ積み上げていく。近代社会に法の支配が貫徹された根本原理は形式論理である。形式論理の元祖はギリシャのアリストテレス。それをカントやラッセルが磨き上げた。基本、日本以外の、特に、プロテスタントやユダヤ・イスラムなどの一神教世界は形式論理で貫かれる。儒教やヒンドゥー教・原始仏教が支配する地域も同様である。今の世界は形式論理がスタンダード・メカニズムである。そうして近代が辛うじて保たれている。

日本の国の借金が1000兆円を超えてしまったのも、産業構造改革が一向に動き出さないのも、官製経済に沈んでいるのも、日本人の「空(くう)」の原理にその震源がある。「空(くう)」の原理は、「芝の庵」を思い出せばわかる通り、巨大な概念建造物を作り維持することができない。いくら文字で書き起こしたり図解で紙に記録しても、その場の関係性が変わればそちらが優先されてしまう。論理一貫性は「空」にとっては無価値である。

人間は寝るといったん意識が消える。だから、翌日には違う感情が支配することも多い。形式論理で一貫性に価値を置こうとする圧力を共同体が持たなければ、意見を変えても、他者の意見を拝借しても、誰も咎めるものはいないのである。形式論理を重視する典型的なイギリスでは、選挙公約は絶対である。しかし、日本では立憲民主党のマニフェストを自民党が盗んでも構わないことになっている。いいことは誰がやってもいいじゃないか、国民は「空(くう)」の原理で民主主義の原理を飛び越える。

推定無罪や罪刑法定主義の原則も、マスコミが報道を煽るとすぐに吹き飛んでしまう。大事なのは形式論理の一貫性ではない。その時の物語りなのである。

 

「空(くう)」に生きると創作が得意になる、戦後アノミーがそれを誘う

でも、しかし、日本人の「空(くう)」の原理も悪いことばかりではない。国家や民主主義や資本主義を作るのは大の苦手だが、アニメなどの創作物をつくる感性は天下一品である。形式論理に惑わされない分、その場の空気を感じ取る能力は世界でも頭抜けることになった。お笑いやアイドルづくりも高い能力を示せるのである。

人間はそもそも物語りがないと生きていけない動物である。物語りが生きる意味を紡ぐ。近代社会を形成する巨大な物語りである国民国家やナショナリズムという物語りが、敗戦でアメリカに奪い取られて以来、日本社会はアノミー(無意味の支配)に陥ったわけだが、それを「空(くう)」の原理が埋め合わせたのである。終身雇用や年功序列といった日本独特の雇用慣行に始まり、コミケなどの隆盛、日本アニメの質の高さは今や世界で知らないものはいない。それらが日本人の心のすき間を埋めてきた。戦後、自殺率が高まったとはいえ、それ以外の人はオタク化することで生きる意味を紡ぎ続けた。空に生きる日本人は、手の届く範囲の感動する物語りの創造が得意なのである。

アニメ作品の特徴は、緻密な細部の演出である。日本人は緻密さにかけては世界一である。キャラクターの身に着けるアクセサリーやちょっとした家の中の調度品に至るまで、細やかな神経で物語りの演出を際立たせる。骨太の骨格にあたる形式論理を無視する分、細やかな細部に目が行き届くのであろう。物語りの神は細部に宿る。日本アニメが世界一の理由である。

 

形式論理と「空」の原理、日本の会社の経営のコツ

日本人はアニメなどの創作物の制作は得意だが、巨大な形式論理である国家建設などが苦手である。だから、国家財政や日本の政治は、今後ますます崩壊に向かうだろう。もはや国民は頼るべき財政の後ろ盾を失う。しかし、日本人に近代国家の運営は所詮無理なのである。悲しい現実ではあるが、それは2000年間変わらない事実である。しかし、一方、目の届く範囲であれば細部の創造は得意である。日本の会社はそれをもっと生かすべきであろう。形式論理と空の原理は、無理に融合させてはいけないのだと思う。そもそも原理的には融合できない。出来ないものを無理につないでも仕方ない。そうではなく、日本の経営者は、形式論理で形成される近代社会を読み解きつつ、社内においては「空」の論理で戦略遂行を計画すべき、そう思う。

プラットフォームの占領を狙うビジネスモデルを無理して採用するよりも、コンテンツクリエイトに注力すべきだと思う。そうすれば、日本人に伝統的に染みつく「空(くう)」の原理とバッティングしない。日本人のエートスを存分に生かすことが可能である。いま、うまくいく会社は、「空(くう)」の原理を生かす会社か、トップが強権で形式論理を貫く会社か、である。腕力を嫌う経営者は、「空(くう)」の原理と形式論理の使い分けにその能力を注ぐべきである。

「・・・結べば柴の庵にて、解くればもとの野原なりけり」

日本人の原理は1000年変わらずこの社会を支配する。それを無理やり組み伏せるか、はたまた追い風として帆に大量に風を受けるか、経営者はその手腕が問われているのだと思う。