仕事観が変わる『痛快!憲法学』

仕事観が変わる『痛快!憲法学』

近代社会を一言で表現するとどうなるか

明日から新たな本を題材にした精読会が始まる。小室直樹さんの『痛快!憲法学』だ。もう絶版になっているらしくほとんど手に入らないが、社内で持っている人のものをかき集めた。以前、買っておくように促しておいてよかった。

この本は私には感慨深い本の一つだ。若いころの私の、社会の見方を一変させてくれた。近代というものに目を見開かせてくれた記念碑的な1冊である。もう何回読んだだろう。それを社員と共に精読する。ワクワクして普段は自宅で飲むことのない焼酎などあけてしまった。

 

私たちが棲む近代社会を一言で表現するとどうなるか。

「わかること」の内側に「わからなさ」を閉じ込めた社会

この近代の公理に私を導いてくれたのがこの1冊なのである。

「わかること」とは目的合理性・計算可能性のこと。端的に財務循環、つまり資本の合理性のことである。どうやったら効率よく儲けられるか?エンドレス・ゲームの鉄の檻のこと。それをみんなで手分けして(分業)、すべきことを淡々と行う。自由市場を中心とする「人間疎外」のシステムである。

「わからなさ」とは、エニグマ、つまり、生命の神秘・宇宙の謎・人間性とは何か・生きる意味・我々はどこからきてどこに向かうのか、といったことである。宗教観、信仰心といっていい。「世界」との触れ合いといいかえてもいい。

近代社会はこの「わからなさ」を「わかること」の内側に閉じ込めた。本当は「世界(わからなさ)」の方が「社会(わかること=計算可能性)」より大きいのである。しかし、それでは何かと不都合なので、「憲法」に信教の自由という条文をこしらえてそれを閉じ込めたのである。歴史的にいうと1648年のウェストファリア条約に始まる、政教分離の原則である。

 

我々の迷いは「世界」の呼びかけから来る

私たちの感情はなかなかコントロールできない。それは「世界」と繋がっているからだと思う。だから、簡単に「儲けることが善」とは言い切れない。なにか違うんだよなぁ、という感覚をぬぐい切れない。お金が大事だとはわかるけど、それだけではない気がする。

あたりまえである。普通はどこでも「世界(わからなさ)」のほうが「社会(わかること・計算可能性)」より大きいのである。中世までは「世界」のほうが「社会」より大きかったのである。それが世界の一地方に過ぎない西ヨーロッパにおける殺し合いの都合で「世界」を「社会」に閉じ込めることにした。政治と宗教を分けることにした。カトリックとプロテスタントの宗教戦争の帰結である。

しかし、それがたまたま戦争に都合よかったのである。そして、世界中が真似するようになった。それは殺されないためである。価値が高いからではないし、ましてや、それが人間存在の真理だからではない。その経緯が『痛快!憲法学』には書かれている。つまり、プロテスタンティズムの倫理であり、WASPの国アメリカなるものの経緯である。

 

だから近代社会は時に息苦しい

近代史は戦争の歴史でもある。いや、我々日本人からすると、キリスト教徒の横暴から自分たちを守るための歴史といえる。そのための戦争でしかなかった。

でもやはり、迷いを目的合理性に閉じ込めたキリスト教徒の近代社会は、ケンカにめっぽう強かった。今もその構造はまったく変わっていないのである。

しかし、ケンカに強いのは人間の真理を捨象しているからである。つまり、他者のこころの痛みを無視する理屈をもったということである。近代は、他者を殺していい大義を含む。「わからなさ」を閉じ込めるとは、究極、そういうことなのである。

だから近代社会は時に息苦しい。忙しさにかまけていても、ふとした瞬間に「なんのための仕事?」「なんのためのお金?」という思いが頭をもたげる。でもそれが、人間であることの証拠である。「わかること(社会)」から時折覗く「わからなさ(世界)」。それが私たちを魅了してやまない。

 

女性差別は中世の作法である、端的に時代遅れである

女性の魅力は世界と繋がっているからこそである。子供を産み育てる能力は「わからなさ」の極致である。古代社会はこの力を恐れて女性を差別することにした。穢れた存在に閉じ込めることで社会の秩序を優先させてきたのである。人々を魅了する存在は「神」以外にあってはならなかったのである。「神」という唯一の聖なる存在がソリダリテ(社会連帯)を供給し社会をひとつにまとめたのである。「女性の魅力」はその構造にとって脅威だった。それは中世まで続く。

しかし、近代はもはや「神」を社会の内側に閉じ込めてしまった。なくなったわけではないが、社会を回すためには必要ないのである。必要なのは目的合理性・計算可能性である。「わからなさ」は「わかること」の内側に閉じ込められた。ゆえに、女性を差別する必要も同時になくなったのである。近代は、女性差別を構造的に不要にした。

もし、いまだに差別している組織があるとしたらそれは、近代をわかっていないということになる。近代の構造をフルに活用できていないに等しい。日本の生産性がアメリカの3分の2である理由はこのあたりにありそうである。

 

21世紀、近代という構造問題はより際立つ、人間の幸福はどうなるか

近代社会は、「わからなさ」を社会の内側に閉じ込めた。それが私たちの息苦しさの構造である。21世紀のグローバリゼーション、そして、IT革命によって近代合理主義は、ますます高速で回転するメリーゴーラウンドと化す。息苦しさの構造は変わらない。それどころか益々強化されている。

近代社会は、私たちを飢えから救ったが、その代わり、生きる意味を供給してくれなくなった。19世紀、社会学の創始者たち(トクヴィルやデュルケーム)はこの問題に苦悩した。しかし、いまだその答えは公式には出ていない。

人間は「生き残る」ための目的合理性だけでは生きられない。「わからなさ」が私たちの生きるエネルギーを供給してくれる。エニグマが芸術を生む。生きる意味は、ことばでは説明不可能である。形式論理学の外側に、私たち人間の生きる意味はある。私たちは、近代社会の法の外でこそソリダリテを感じることができる。人間の魅力は、秩序の中には存在しない。そこにあるのは安心・安全でしかない。安心・安全は退屈でもある。

 

女性は世界の代理人、男性は女性(世界)に人間の幸福を教えてもらうべき

わたしたちの会社は女性社員が6割で男性より多い。幹部社員も女性のほうが多い。それは、男性だけでは限界を感じたからである。女性に「世界」を教えてもらわなければ、この先の会社はない、そう感じているからである。

資金調達やシステム開発、業務効率改善、生産効率・品質改善などの合理性仕事は、コストを抑えてはくれるが、価値を生むことはない。それもひとつの価値だよ、と言えばいえるが、やはりちょっと虚しい。もう時代の主流ではないのである。「お値段以上」は、他に買うものがないから買うのである。価値あるブランドが今こそ求められている。

21世紀の会社こそ、女性にもっと教えてもらわなければならないと思う。女性の純粋な感性を経営に取り入れなければならない。男性だけではもう限界である。安いだけの商品などもう誰も欲しくはない。

男性の中にある女性性を呼び起こす時である。年を重ねても、おっさん・おばさんに甘んじてはいけない。いつでも魅力的な人間であらねばならない。人間力こそ21世紀の会社に必要な要素である。

 

私たちは、もっと「世界」を感じながら仕事をしなければならないのだと思う。近代が立ち上がる歴史の本質を見通すと、その必要性が身につまされる。近代合理性は「生きる意味・生きるエネルギー」を供給してくれない。

「意味」は、私たちひとりひとりの内面から生み出す必要がある。「世界」とつながる阿頼耶識(アラヤシキ)は理論物理学のフィールドである。世界の先端の知は、そこまでは解き明かしてくれた。この先は、わたしたちひとりひとりの実践であろう。実際人である我々が、実証実験を繰り返し、「真理」を「社会(近代社会)」に埋め込むときであろう。それはきっと「世界」につながる「ことば」で表現されたものとなる。

 

『痛快!憲法学』に出会って20年。私はこんなことを考えるようなった。

明日はどんな話になるか。今からワクワクしている。