「イノベーション」の原理=「学習」の原理

「イノベーション」の原理=「学習」の原理

「イノベーション」とは「ことば」で「気づき」が生まれる現象をさす

市場が飽和したら別の市場を探さなければならないのだろうか。今の日本ではもはや経済成長は叶わないのだろうか。技術革新が起こらなければ市場の成長はないのだろうか。

世界を分析・支配の対象として自己の内面と切り離すと、こうした問いに答えることはできない。市場を「人間のあたま数×可処分所得」と考えると成熟市場において経済は成長しないかのように見える。個々の企業が成長する余地はもはや日本国内には残されていないように感じてしまう。

しかし、そうではない。ドラッカーのいう「顧客の創造」とは、成熟市場でこそその真価を発揮する。すなわち、企業が提供する新しい意味概念(=ことば=名=物語り)をトリガーに、顧客の心の中に「気づき」が生まれることで新市場は創出しうる。顧客の心の中で、新たな「そうか、わかった!そうだったのか!」というリフレーミングとでも言い得る認識の刷新が起こることで市場は拡大する。成熟市場では、むしろこちらの方が主流でさえある。

顧客の心の中で「そうか、わかった!」という「気づき」が生まれる瞬間、その現象をイノベーションという。それがイノベーションの原理である。

「気づき」は一人の心の中でおこるかもしれない。集団心理の中で起こるかもしれない。規模は大小さまざまかもしれないが、その原理的なメカニズムは同じである。イノベーションとは、「ことば」で「気づき」が生まれる現象をさす。技術革新はその全集合のなかの部分集合にすぎない。

 

「気づき」とは、認識のフレームが書き換わること

人間は、常にすでに、ある一定のフレームの中に物事を収めて眺めている。対象がモノでも、コトでも、同様である。ある人にとってパソコンは仕事で使うもの。しかし、ある人にはそれは映画を見るものである。また、別のある人にとっては作図をするためのものかもしれない。幼い赤ん坊にとってはおもちゃであり、邪魔な障害物でさえある。

多くの日本人にとって1945年は終戦であって敗戦ではない。悪いのは日本の軍部の独走であって自分たちではない。1964年以前の日本人のヒーローは西郷だったが、その年を境に竜馬に書き換わる。日本はアジアの一員から西側の一員に書き換わった。

認識のフレームは、時折、なにかの刺激で書き換わる。「そうか、そうだったのか!なるほど!」という瞬間を意識するとこもなく気が付いたら書き換わっていたということもある。それは集団心理の同調圧力である。しかし、その最初のきっかけは個人の心に訪れる。それが伝染し、人口に膾炙されたとき、集団心理はすでに別のフレームに書き換わっている。

 

「イノベーション」と「学習」は原理的には相似形である

西洋的な価値観で「学習」を観察対象として眺めると「イノベーション」に見える。一方、自己の内面の刷新を自身の感性の変化として捉える仕方を「学習」という。自己の内面と外界の世界を切り離せないひとつの「織物」のように眺める仕方は、仏教の「空」の原理である。その時世界は「縁起(=関係から起こる連なりとして捉える仕方)」しているように感じられる。世界はすべて自身の認識によっている。これを仏教では唯識論という。

イノベーションを理解するには、仏教の唯識論を理解するとわかりやすい。世界はひとつの織物である。どこかで切れるようなものではない。

ゆえに、ある「ことば」をきっかけに、一気に書き換わってしまう、そういうものである。「イノベーション」と「学習」は、同じ現象をさしている。一方は自己を切り離す西洋的なモノの見かたで捉え、一方は、世界を自己の内面と地続きの一つの織物として捉える。

 

マーケティングとはイノベーションを現象させる活動のこと

ゆえに、マーケティングとは顧客に学習を促す活動である。そして同時に、自身が学習する活動でもある。

共通点は、「そうか、わかった!」という現象が生まれることである。大きくて複雑な「世界」という「織物」のどこかで、この「気づき」が生まれ、関係を通じて伝播する。速度も影響範囲もさまざまだが、原理はみな同じである。

成熟市場に対峙している会社の活動はすべて、このイノベーションを促すマーケティング活動である。すなわち「学習」活動である。他者の認識を「学習」し、自己の学習結果を記述して他者の学習を促す活動である。自己と他者の接点をメディアと称する。

 

マーケティングとは「気づき」を生むための「ことば」を作り出すこと

メディアは基本的に「ことば」である。意味をともなう記号である。それが「気づき」を促す。

ゆえに、会社の活動は、気づきを促す「ことば」を開発することがその中心を占める。既存の「ことば」と既存の「ことば」を新たに組合せ、リフレーミングする「ことば」を見出す活動である。シニフィアンとシニフィエのつながりをちょっとだけずらしたりして、新たな意味を創出する。他業界から「ことば」を借りてきて、自身が対峙する業界で新たな意味として使用する。そうすることで、自身も顧客も、認識が刷新される。認識がリフレーミングされる。

「学習」は「イノベーション」であり、「イノベーション」は「学習」である。

 

社員の内面と顧客の内面は地続きである

「会社の中にはマーケティングとイノベーションしかない。」これがドラッカー・マネジメントの定義である。マネジメント=マーケティング+イノベ―ション。ゆえに「事業計画」とは「学習計画」である。

大切なのは「学習」を組織全体で行うことであろう。いわれた作業を言われたとおりにこなすことは仕事ではない。自身の学習を、組織の目的に包摂するのが仕事である。そうして給料が正当化される。社員の内面と、顧客の内面は地続きである。

「目の前の作業をこなす」そうした「仕事」は20世紀のものである。そうした「仕事」はシステムに置き換わる。置き換えなければならない。それが21世紀の仕事の設計である。

イノベーションも学習も、「ことば」によって現象する原理を有する。ゆえに、仕事の基本は「ことば」である。「ことば」を丁寧に選ぶのが、そして、日々現場で感じる違和感を「ことば」で表現することが「責任」の本質と言うことになる。自身の内面の違和感を「ことば」を使って整えること。それが21世紀、私たちの努力の焦点である。

 

「ことば」主導の「業務」へ変革すること、それが経営の仕事

作業の連なりとして仕事をイメージしては間違える。朝出社して、パソコンをいきなり開くような作法は、自身を、自身の「ことば」から剥離させてしまう。「ことば」は内面の奥深く、阿頼耶識(アラヤシキ)という場所に格納されているのである。阿頼耶識(アラヤシキ)が世界と繋がっている。

ゆえに、仕事の基本は阿頼耶識(アラヤシキ)を感じること。阿頼耶識(アラヤシキ)は目には見えない。他者の阿頼耶識(アラヤシキ)はわかりようがない。自身のそれも、盲目的に作業するだけでは気が付けない。

理論物理学ではこれを「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ぶ。やはり、世界とつながる窓である。

人類は、この「場所」を解明したことはない。しかし、それが「ある」としなければ説明できない現象が山ほど世界にはある。「イノベーション」や「学習」はその中心的な現象である。

内省でそれを理論的に構築すること。「ことば」を使ってその「場所」を浮かび上がらせる。21世紀の仕事の基本は、この作法が支配する。

 

「らしさ」を「ことば」で重ね描き、それがブランディング

自己の阿頼耶識(アラヤシキ)と、他者の阿頼耶識(アラヤシキ)を感じ合うのが組織学習である。そして、組織として対峙している、または、対峙しようとしている顧客の阿頼耶識(アラヤシキ)の集合が「われわれの顧客は誰か?」に対する答えである。ドラッカーは仏教用語を使はないが、ドラッカーは仏教用語でこそ読み解けるからこそ、日本人に馴染み深い。

21世紀の成熟市場におけるマーケティングは、イノベーションと学習がカギを握る。ブランディングとはこのことをさす。

その会社「らしさ」を「ことば」で何度も重ね描きしていくのである。顧客の阿頼耶識(アラヤシキ)と組織の阿頼耶識(アラヤシキ)がぶつかり合い、共鳴し合い、創発する。市場と対話を繰り返すなかで新たに現象する物語を「ことば」で切り出すのである。顧客と組織で、ひとつの織物を紡ぎだすように。そうして新たなブランドは現象する。

それがプレコチリコの作り方。私たちの仕事の原理である。