制約があるからこそ価値が産まれる。
本当に足りないことって何だろう
もっと時間があったらなー、とか、自分が何人も居たらなー、とか考えることがある、そしたら何でも解決できるし、もっと早く物事を進められるのになんて所まで想像が膨らむ。
そういった想像がどんどん膨らんで、唐突に「これ全然面白くないな。」ということに気が付く。無限に時間があって何でも解決できたとしても、何百人も自分がいて物事を早く進められたとしても、全然楽しくなさそうだ……。その時に気づいたのが、もしかして人って制約条件があったり制限があるからこそ、工夫したり、頭を捻ったりする、それが楽しいんじゃないだろうか、という考え。
価値が産まれる瞬間
時間や資金に制約があるからこそ、工夫のしがいがある。もしそれが湯水のようにあったとしたら人は考えなくなるし、工夫を放棄してしまう。そしてそれによって手に入れた成果や結果というもの自体も薄っぺらになる。
最近暑くてハーゲンダッツを食べるのだけれども、小学生の時に食べたことのあるハーゲンダッツの方が美味しかったなーと感じたりする、それもきっと小学生のお小遣いで貯めに貯めて食べたものだからこそ、きっとあんなに美味しかったのだろう。仕事終わりのビールだってそうだ、何もせずにダラダラ過ごして飲んだビールなんかよりも、圧倒的に仕事終わりのビールの方が美味い。それらはきっとハーゲンダッツやビールそのものが美味しくなったというよりも、制約や制限のなかで工夫して手に入れたものだからこそ美味しくなるのだろう
。制約や制限のなかで、努力や工夫をすることによって、感じたものや手に入れた物だからこそ、価値が産まれるし、意味が色濃く彩りのあるものになるのだろう。簡単に出来ることや手に入るものには色彩がなく味も薄く感じるのはきっとそのせいなのだろう。だから、きっと、人は昨日まで出来なかったことを出来るようにしていく、難しいことに挑戦していくことに楽しさを見出すのだろう。そこにこそ、きっと価値が産まれて、感じるのだろう。
自分達が目指すべきところ
時間やお金が湯水のようにあって何でも簡単に解決できる、そんなことには何の意味も感じないし、楽しさも、努力や工夫のしようもない。自分が難しいと感じることだからこそ、自分が出来ないことだからこそ、やろうとすること挑戦しようとすることに価値がある。だからこそパワーや熱量が産まれるし、楽しくなるのだ。きっと失敗することもたくさんあるのだろう、けれどもそんな姿勢で生き続けたい、そんなことを考えた1週間だった。(たいら)