「生きづらさ」を考えるゆるい社内飲み会 報告(1)

「生きづらさ」を考えるゆるい社内飲み会 報告(1)

仏教に学ぶ生きづらさの解消

2か月ほど前、ある社員との「振り返りシート」のやり取りがきっかけでスタートさせた「仏教飲み」が昨夜3回目を数えた。最初4人の有志で始めた飲み会も今回は12名が参加するほどに拡大。社内カフェの一角を陣取り、冷蔵庫にあるビールや酎ハイを傾けながら約3時間、仕事を続ける社員を横目に明かりを落としてスタートした。

主催するのは私ではない。仏教に興味を持ち、独学で勉強を進める社歴の長い社員が中心になり話の輪を広げる。私にも「自由参加なので気軽に来てください」と声をかけてもらっているのでリラックスして参加している。

テーマのきっかけは仏教だが、話の内容は結局「生きづらさ」の解消に向かう。まじめに生き方を考えてしまう社員が、仏教の学びをきっかけにラクに生きる考え方を話し合うというスタイルだ。気の置けない仲間同士、皆、実に楽しそうだ。あっという間の3時間だった。私も毎回、楽しみにしている。

 

今回のテーマは「空」

今回の話の入り口は「空」。仏教の奥義と言われている難しいテーマを主催の社員が選んだのには感心してしまった。「空」を理解するために提案された本は、小室直樹さんの『仏教原論』。そのなかの一節を紹介しながら議論がスタートする。白版に書かれたのは次の俳句。

 

ひきよせて 結べば柴しばの庵いおりにて とくればもとも野原なりけり

 

「空」とは、私たちが慣れ親しんでいる形式論理学ではわからない。論理的に「空」を証明しようとするとわかりようがない、というのがこの俳句を選んだ理由である。形式論理学は「ABである」とすると即「ABではない」を引き寄せる。両者は両立しないのが前提である。これが私たちが慣れ親しんでいる説明のやり方である。しかし、仏教の奥義たる「空」は、この形式論理を否定する。建築物を設計するような説明の仕方を拒絶する。「ABである」と同時に「ABではない」が成り立つ世界観である。「結べば庵」「解くれば野原」。それが庵なのか、野原なのかは、見た人の判断によるのだ、そういうことを説明しようとする。見る人の見方によって「庵」にも「野原」にも対象物は変化する。説明の根拠は対象物ではなく、見るこちら側の心にあるのだ。それが「空」の原理である。そういう世界観が仏教の世界観。世界はキリスト教的二元論と仏教的「空」の世界観に二分している。私たち日本人は、この両者を理解することが出来る稀な位置に住んでいる。そして、21世紀の現代、西洋社会の関心はこの脱二元論に傾いている。面白い。

 

私たちの苦しみは私たちの意識がそうしているだけ

このものの見方・考え方を進めると、いろいろなことに思い悩むことがなくなるよね、と話は発展する。「唯識論」という、すべての存在は私たちの意識が存在せしめている、とする仏教の考え方は、私たちの「悩み」を思い煩う必要がないものに変えてしまう。まじめな人間が陥りがちな、頑なな考え方を解きほぐしてくれる。私たちの凝り固まった西洋的な考え方を相対化してくれる。心がふっと軽くなる。

普段の仕事の現場で考えることになっているのは西洋を起源とする二元論。論理思考はそもそも二元論で出来ている・・・。皆の集中力は頂点を迎える。これが仏教飲みの楽しい瞬間である。

 

夜更かししたい気持ちをどう考えるか

ある社員がこんなことを言い出した。曰く「早寝早起きしなくちゃ、とは思うけど、ついつい夜更かししてしまう」「なにか寝るのがもったいなくて、ついつい夜遅くまで起きている」「翌朝、眠くて後悔するのだけど、どうしたものか・・・」

私たちの仏教飲みは、こんな時「早く寝ればいいんだよ」なんていう身もふたもない反応はしない。そうした悩みにみな真摯に耳を傾ける。曰く「それは夜更かしが楽しいからなんじゃないの?」「社会のルールの外に出た気がして生きてる実感がするからじゃないの?」「そういえば夜遅くコンビニに無駄な買い物をするのが私はたまらなく好きだわ」・・・

こうして話は近代社会のメカニズムに及ぶ。仏教が説く「空」の原理と、私たちが棲む近代社会のメカニズムをどう折り合わせればいいのか、と。「解くカギはないのかもしれないけど、両者の矛盾を理解するだけで、なにか心が軽くなる気はするよね」「夜更かしをあえて楽しんだんだから、翌朝の眠気に罪悪感を感じるんじゃなくて潔く諦めればいいんじゃないの笑」こんな調子である。みんな楽しそうに笑っている。なぜか心が軽くなる・・・

 

仏教を学ぶと気持ちが楽になる

後半、話は仏教の「八正道」に及んだ。主催する社員が丁寧に説明してくれた。昨夜は八正道の7番目「正念」について特にこだわって説明してくれた。「記憶」「気づき」とかいう意味だとする解説が多いが、個人的には「記憶を辿りながら生き方に気が付いていく」というニュアンスを含んでいるとするのがしっくりくる、と説明してくれた。みな納得である。自然と笑顔になる。本を一冊読んだような気分になって、何か得をした気分だ。やはり楽しい。

 

私の好きな時間

コロナの影響もあって外出しての飲み会が減っているのも事実だが、かえって社内で行う、ゆるくてまじめな飲み会が心地いい。堅苦しくはないが、緩みっぱなしでもない、ちょうどいいまとまり具合の仏教飲み。程よい空気が私たちを満たしてくれる。カラオケもない。一気飲みもない。大声で叫ぶことも全くない。穏やかな学びの時間が心地いい。

私はこの時間がとても好きである。疲れていても参加し続けたい空間である。第4回が楽しみだ。