暮らしに、芸術を。_芸術❺
曇りガラス越しの視界
芸大報告の3回目になる。考えれば考えるほどに、記憶を辿れば辿るほどに、わたしの中で何かが蠢く。これがes(生きる衝動)を刺激する芸術の力なのだろうか。
なにかとんでもない宝物を見つけたような、でも、その輪郭はまだ、ぼやけているような、曇りガラス越しにその宝物を凝視しているような状態である。そういば、『逸脱する声』の展示の中にも、そんな作品があったっけ。その時はなんのことなのかよくわからなかったけれど、もしかしたら、今のわたしのような「内面」を表現したかったのか。ならば凄い。芸術家の実力を、また思い知らされたようだ。
不思議な感覚である。でも、嫌なものではない。むしろ、羽が生える直前の、蝶のさなぎのような気分である。これまでの我慢が一気に花開く・・・そんな予感を感じさせてくれる。むしろ、このまま答えなど出なくてもいいのかもしれない。この感覚をずっと続けていたい気もする。
「芸術とはなんだろう?」
アートではない。芸術への関心。芸大訪問の前に、わたしが率直に抱いていたテーマであった。それに輪郭は与えられたのか。なにか訪問前よりは曇りガラスはクリアになったようだ。
芸術作品は、対象物として「分析」してはいけない。それを見た時の、自分の内面を感じとるのである。記憶を思い起こしたときでも構わない。それがあなたにとって「気になる」のであれば、それはなぜなのか。内面の奥深くに「あるはず」の生命の衝動(es)を探す。
それは近代社会の騒がしい日常では生きていけないほどに壊れやすいものである。朝目覚めて「いつもの電車に乗らなければ!」そう考えた瞬間に消えてしまうほどのものである。メールを返信しなければ!今日のスケジュールはなんだっけ?そういった日常気にしなければならない些細なことによって儚く消えてしまうシャボン玉のような存在である。
でも、子供の頃はたしかにもっと存在感があったものである。少年時代に母が準備する夕飯の包丁のリズムを遠くに聞きながら、同時に感じる雨の匂いや草の香り、砂利道を走る自転車の車輪の音などによってたしかに感じた「生きている」実感のようなものである。
ぶん回る近代社会に抗うには、この壊れやすくも、しかし、確かなわたしたちの衝動(es)を連帯して「つくる」ことしかない気がする。少年時代のやさしい「記憶」を思い出しながら戦争を決断するものはいない。
曇りガラスの向こうに、探していたものが見え隠れしている。
触れたものの「es」に火が付いてしまうこと
『逸脱する声』の「声」とは、作品をみたもののesのことである。
少なくともわたしはそう思う。
esとは、内的衝動、根源的な生きるちからのことである。私たちが生活者・存在者としてコミュニケーションを取るために使う物理的に聞こえる「声」のことではない。科学的アプローチでは決して届かない、魂の叫びのようなものである。人間存在は、それを聞き取れる。
その「衝動」とは、日常よく見かける「座席争い」に邁進する「衝動」ではない。「いい学校・いい会社・いい人生」図式の内側で「焦る」気持ちのことではない。近代社会にあるものにとって「座席争い」は必至だが、それは同時に自らのesを殺してしまうメカニズムである。マルクスはそれを指して「疎外」と呼んだ。ウェーバーは「鉄の檻」と表現したのである。
それが、この時代、最大の問題なのである。
それをどうにか「手当て」することが今の時代を生きる者の最大の「仕事」なのである。経営者とか、芸術家とか、学生とか、公務員とか、そんな目で見える役割など関係ない。どんな仕事についていようと、突き詰めると、近代社会に生きる者みんなが向き合うべき「課題」なのである。
「触れたもののesに火をつける存在に」
それがレスポンシブルな会社がめざすべきものである。
自分のことばで話せるようになるための仕事である。
わたしたちが抱く使命である。
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私たちはなにを「つくる」のか
日常の生活で、目に触れるものがすべて、わたしのesに火をつけてくれる存在であったなら・・・
朝、目覚めてから、夜、床につくまでに触れるあらゆる存在物が「芸術」の要素をまとうものであったなら。ウクライナ戦争も少しは違った様相だったかもしれない。惨憺たる日本の政治状況も、少しは希望が見出せるようなものになっているかもしれない。
首相の会見の場がもし、巨大なモニュメントひしめく芸大の校内で行われたならば、相手の目を見て話す気になるやもしれぬ。インタビューアーも、答える政治家も、自分のesを無視することに恥ずかしさを覚えるかもしれない。
わたしたちは、そんな「作品」を作ろう。
近代社会の、一定に流れるリズムをちょっぴり脱臼させるような、遊び心のある「作品」を暮らしに送り込もう。欲しいのは『逸脱』である。リクルートスーツを着ているのに金髪で面接に来てしまうようなセンスである。オフィスに堂々とビーサン、短パンで出社する勇気である。そこから生まれる「ことばたち」である。
昼間からビールを飲まないのは、それが倫理的にいけないことだからではない。仕事のあとの酒をできるだけおいしくするためである。タイムカードが存在するのは社員を管理したいからではなく労基がうるさいからでしかない。「不要不急」こそ「燃焼促進剤」である。ほしいのは近代のための規律ではない。esを組織的に生み出すための「戒律cred」である。
芸術は戦争を止められる。
社会課題を解決できる。
組織も芸術作品である。
事業はイノベーションで芸術になりえるのである。
だから、会社もきっと戦争を止める力となれる。
商品はことば_想起力の本質
マルクスは「商品」には魔力があるといった。私たちのesを資本制に巻き取ってしまう「魔力」である。しかし、「商品」は同時に「芸術作品」にもなりうる。それは「作り手」のesしだいである。
esはesを呼び覚ます。
「商品」を作ろうとすれば「商品」になり、「作品」を企てればそれは立派な「芸術」になりえる。もちろん、作り手の技術の問題はある。それは鍛錬である。しかし、時間はたっぷりある。近代はまだ続く。
esを大切に育てる組織をこそ作ろう。
その「組織」が、「商品」を「作品」として「つくる」。
ベッドの棚の角ひとつに、お送りする梱包箱に印刷する「ことば」ひとつひとつに、ソファの張地の手触りが呼び起こす記憶のカケラという偶然に、小さな、小さな、esを足す。
売れ筋とは想起力のある商品。
でも、その「ほんとう」は、esとesの化学反応である。作り手のesと顧客のesが一瞬触れ合い光を放つ。顧客が一瞬、過去のなつかしい記憶を思い出す。仲間の顔を思い出す。そうした「ちから」を備えていることが「想起力」の本質である。
さまざまな作品
芸大にはさまざまな学科があった。彫刻や絵画など、芸術らしい学科もあるが、マンガやアートプロデュース、商品企画など、一見、芸術に関係ないかのような取り組みも多い。
わたしがお世話になった先生の「専門」は、文芸という聞き慣れないものだった。「文学」部ではない。「文」の「芸」の学科である。その中には小説を読む・書く授業や詩作・評論、はてはインタビューやエッセイなども含まれるという。そこには、「ことば」による芸のすべてが含まれているようだ。
でも、絵も彫刻も版画もなにもかも、それらに携わる方々(芸術家)の「ことば」にはどれも「ちから」があった。「ことば」がそれら作品の基盤になっているのだな、そう思えた。
「商品はことば」は、即、「商品は作品」まで飛んでいく。
近代とは別の「時間」
それに触れたもののesを刺激する、生きるちからを呼び覚ます作品とは、ある意味では、別の次元の「時間」を想起させるなにものかなのであろう。時刻表で表せるような帯を並べたような時間ではなく、時間を超越した「時間」。時間を忘れてしまう「時間」である。
「わたしたちは皆、二つの時間を生きている」
これは「もっとほんとうのこと」の着想の源になったインドの詩人タゴールのことばである。近代への防波堤は、近代から逸脱する、この「時間」である。
わたしたちが最終的にこの地上に残すべきは、究極、この「時間」を生み出す「作品」なのだろう。近代の内側ではない「時間」にワープする力こそまさにesなのであるから。
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今、わたしは、広島の宿泊しているマンションの一室でこれを書いている。朝から机にかじりついていたせいか、なんだかお腹がすいてきた。それでふと顔をあげると、レースカーテンの柄が目に入ってきた。急にその柄が気になりだす。描かれているのはリーフの模様である。
こうしたひとつひとつが、わたしのesに火をつけてくれるものであったなら・・・こんな素敵なことはない。
日常の暮らしに芸術作品をあふれさせよう。
素直にそう思えたのである。
やはり、芸大のみなさんに感謝である。
わたしのesは、たしかに刺激されました。