「娯楽」は一瞬、自分の存在を大きくするもの。「芸術」は自分がちっぽけな存在でしかないことを教えてくれるもの。_芸術を考える❷
娯楽はいわば「アヘン」である
「娯楽」とは、自分の存在を下駄を履かせて大きなものと感じさせてくれるもののことである。そこに自分の真の努力はない。「娯楽」は、あさましさと結びつきやすい。
やくざ映画を見て気が大きくなったり、恋愛小説を読んで美形の主人公に自分を重ねて胸をときめかせたり、社会的に優位なポジションについて権勢をふるったり、自然科学を悪用して強力な兵器を開発し他国を威嚇したり、事業家が売上規模を誇らしく思ったりする内面も娯楽を欲する構造である。
「娯楽」とはいわばガンダムである。人型のモビルスーツを身にまとい、実力をかさ上げし満足感を得る仕掛けである。本当はちっぽけな存在でしかない自分を忘れるために利用する。強引に承認を調達するプログラムと言える。そうした一連の「物語り」であろう。
「芸術」はちっぽけな存在でしかない自分を知らしめるもの
一方、「娯楽」との対比で、「芸術」は、その真逆の作法を狙うものであろう。いずれ死を迎えることが確実な無意味でしかないちっぽけな「自分」という存在を思い出させてくれるものである。かけがえのないこの「意識」が、実はただの生命現象でしかないということを思い起こさせてくれたりする。
日常的には高い社会的地位にあって権力を振るっている人も、実はそんなものは仮物でしかないことを思い知らされて傷つくきっかけを与えてくれるものである。
わたしたちの近代社会を前提にするならば、その近代の内側であくせく過ごしている日常を「ふっと」相対化してくれるものでもある。
心にちょっぴりひっかき傷をこしらえ、それをきっかけに存在論的な位相に私たちを連れて行ってくれる。
近代社会の中であくせく存在者として振る舞うわたしたち人間を、謙虚にしてくれる「文脈」、それが「芸術」というものである。
ポイントはこちら側の心の構え
「娯楽」と「芸術」を対比させながら、「芸術」とは何か、ということを浮かび上がらせたかったのである。
「娯楽」も「芸術」も、判断するポイントは、客観的な対象物に宿る「要素」を見るというよりも、こちら側・見る側の「心の構造」にこそポイントがあるのだろう。どんな芸術作品も、見る側にリテラシー(読解力)がなければただの物理的な物体(イベントの場合もある)でしかない。視座こそがポイントである。
そうした意味で、芸術を社会に浸透させ、芸術を使って社会を善き方向に変革させたいと願うならば、それを受け入れる社会の側の「心の習慣」そのものを涵養する活動が本質だということにもなるのだろう。
ただ、「芸術」とはなんだろう?と思っている人は多いと思う。著名な芸術作品をお金の力で買う有名人を見て、本当にこいつは「芸術」の価値などわかっているのか、と感じている人も多いと思う。芸術というものを自分の頭で理解したい、そう思っている人とともに「芸術」というものをもっと等身大の対象に出来ないか、そう考えて理論を浮かび上がらせたいと考えた。わたしもその一人である。
だから、大胆に論を展開をしてみたいのである。
芸術とは人を謙虚にするもの、娯楽は人を尊大にしてしまう可能性を秘めるものである。
近代への処方箋_2種類の方法
近代化の進展でますます生きづらくなる世の中に「娯楽(アヘン)」は必要だと思う。近代人である私たちは、基本、座席争いから逃れられない。勝者も敗者も、物理的・日常的には、勝ち組負け組図式の土俵の中に閉じ込められている。近代社会の日常はとても窮屈なのである。そして、多くの場合、そのことに気が付いていない。気が付かず、苦しさだけを感じている・・・
そこからどうやって逃れるか。
その前に、その囚われの心的構造をどう自覚するか?
これは全人類の課題なのだと思う。
そして、その方法(方向性)が2種類ある、そう構造化して考えてみるとわかりやすい。
一瞬、なんの努力もなく、それを忘れさせてくれるのが「娯楽」である。いわばファインチューニングの装置。
ゆえに、娯楽の効果には持続力がない。努力を要せず、一瞬、気分が軽くなるのではあるが、その分、効果が切れた時の落差に苦しむことになる。「宴うたげの後」のむなしさは、この落差のしわざである。私たちの日常はこうした娯楽であふれかえっている。
一方、「芸術」を堪能するには知的・精神的な主体性が要求される。見る側に読解力(リテラシー)を要求する。そのための持続的な知的鍛錬が必要である。
しかし、その分、芸術の効果は持続的である。人間存在の摂理を見せてくれることで心の芯からの癒しを感じられる可能性である。人間はなぜか真実を知ると癒されるものである。たとえそれが絶望であっても、であろう。そして、他者ともその境遇を共有していることに気が付き、連帯(ソリダリテ)を感じるものであろう。慈悲の心が芽生える瞬間である。他者に優しくなれる契機、それが芸術が内包する可能性だと思う。
人間を傲慢にさせるもの
ただ、この世界にはそれそのものでは「娯楽」とも「芸術」とも区別がつかないものも多い。近代化の進展、つまり、科学的な真理の探究という方法論を手にした人類は、自然を、社会を、科学的手法で組み従えようと様々なアイテムをこしらえていった。化学の進化で手にした兵器。経済学や社会学・心理学の発展で手にした経営学などである。
どちらも、「娯楽」にも、「芸術」にもなりうると思う。
つまり、使い方を誤ると簡単に「芸術」も「アヘン」に姿を変える。使う側、見る側の「動機」や「目的」次第で、成果にも災厄にもなりうるものである。
見る側にポイントがあるというのは、どこでも通用する理屈である。「芸術」というものを理論立てることで、どうやら社会を見る目も私たちは養えるようだ。
科学は方法論でしかない。その科学の成果を「真理」だとベタに信じ、目的や動機を覆い隠すことで、人類は自らを絶滅せしめるほどの兵器を開発してしまった。核兵器など自分の存在を大きく見せるための「娯楽」の最たるものになりうる。それを保有し、ボタンを押す権利を持つアメリカ大統領の職は、動機を間違えると、世界一強いスネ夫やジャイアン(ドラえもんのキャラクタ)に成り下がる。ウクライナ戦争を長引かせるバイデンの笑みが、のび太をいじめるスネ夫でないことを願う今日この頃である。
科学は方法論である。科学的成果の帰結は、それを使用するものの動機や目的にかかっている。
社会の事象を、「娯楽vs芸術」フレームを通して見ると、見えてくるものが多い。
売上は「娯楽」である
事業においてもこうした「事象」は事例に事欠かない。
事業規模を拡大させる欲求は、すぐに「目的」と化してしまうものである。本来は、別の目的を達成するための「手段」でしかない売上規模という「おもちゃ(アヘン)」が、それそのもので目的にすり替わっている姿はどこにでもある光景であろう。わたしも必死に会社を立ち上げようとしていた時期には、「会社は一生遊べるおもちゃだな」そう感じたものである。目的や動機を振り返れないと、会社も一瞬で「娯楽」と化す。今、その弊害は極致である。
事業を「娯楽」にしてしまわないために
事業を「娯楽」とするか「芸術」とするかは経営者次第である。事業は科学と同様、本来、手段・方法論でしかない。売上や利益は、あくまで手段であり目的にはなりようがないのである。それを芸術の存在が教えてくれている。芸術と娯楽の効能の差異が、教えてくれている。
様々な芸術作品を、売上というモビルスーツに乗せて、遠くの人々の元まで届けること。マーケティング&イノベーションで切り開いた市場を運搬装置として、人間を謙虚にする芸術作品の具体的なものを送り届けること。
それが芸術作品と娯楽としての事業数字の関係でなければならないのだと思う。売上を上げることは一瞬、自分の存在を大きなものに錯覚させてくれるが、それはあくまでアヘンとしての「娯楽」の作用なのである。決して、売上を目的にしてはいけない理由がここにあるのである。
「娯楽」は、一瞬、自分の存在を大きくするもの。
結果、尊大な自分を引き出してしまうもの。
(尊大な自分が対象を娯楽化してしまうこともある)
「芸術」はちっぽけな存在でしかない自分を知らしめてくれるもの。
そして、自分を謙虚にしてくれるものである。
(謙虚な自分が対象を芸術作品に変えるのである)
この公式を様々なモノに当てはめて検証することで、生きるための羅針盤をも手に出来る気がするのである。
今週末、とある芸大で会社説明会がある。どんな対話が出来るのだろうか。芸大の学生や先生方は、どんな志をお持ちなのだろうか。
そんなことを想像しながら考えたことである。