近代という退屈

近代という退屈

長期休暇は必要か?

私は長期休暇が嫌いである。それは端的に退屈だから。事業が傾くかもしれないというヒリヒリとした恐れや危機感も一時、棚上げされてしまう。赤字に直結する為替の乱高下もどこかひとごとに思えてしまうかのようだ。人は、他者との接触によってしか危機を感じることが出来ない動物なのかとげんなりする。いちいち「これは危機ですよ」と教えてもらわなければ気が付くことさえできないのか。感情も所詮、現象でしかない。対極にあるエネルギーという名の幻想にすがりたい。このまま消えてしまいそうだ。

近代にアジャストしすぎて空洞化してしまった自己の内面の空虚さを見せつけられているのだろうか。ちょっと意識しさえすれば反転できるにも拘わらず、それをやろうとしない「自分」というシステムにほとほと嫌気がさす瞬間である。長期休暇の過ごし方が、わたしには今だにわからないのだ。私は本当に経営者なのだろうか。ひょっとしてサラリーマン根性が今だ、抜けきれないのか。呪いたくなるような想像だ。

誰か、人をでも殺したくなるような衝動を抑えきれなくなるようだ。大声で叫びたくなる。思わず、プーチンでもいてくれてよかったと思う。権威主義は近代の必要悪のようにも思えてくる。いわゆる「西側」だけでは退屈極まりないではないか。ウクライナ戦争を背後で支えるアメリカは、端的に戦争がしたいのである、そんなことも考える。近代の集積であるアメリカというメカニズムが破綻を渇望しているがゆえだと想像したりする。安心・安全・便利・快適が完成に近づく「近代という退屈」に耐えられないのだなぁこの人たちも、そう思う。

計算可能なモノの範囲を近代というのだ。しかし、人間はその内側だけに留まることが耐えられない。人間には祭りが必要だ。「アメリカ人」は自分の中にも確実に存在するのである。長期休暇がその「アメリカ人」を起こしてしまったようで自殺したくもなる。「日本人」も嫌いだが、「アメリカ人」はもっと嫌いなのに、である。「アメリカ人」の祭りとは「戦争」のことである。

 

偏差値・評価・業績・近代

思えばわたしたち現代人は、何の疑いもなく学校教育のレールの上で競争させられてここまできた。大人になった今も、偏差値が業績評価に変わっただけで、その本質に大した差異はない。学生時代、恋愛に逃避していたその時間は、子供への教育熱にすり変わっただけ。20代の焦りは、近代の象徴でしかない。早く売れるうちに売ってしまわなければ。「自分」という賞味期限にはめ込む無意識こそが近代とも気が付かず。

毎朝、カバンに詰める教科書の代わりに、今は、こどものためにタッパに卵焼きを詰めている。こどもという大義が生まれただけ善しとしなければならないのだろうか。その大義は、子供への抑圧という代償をしっかり負債として積み上げているにも拘わらず。弱いモノを搾取することでしか、私たち現代人の内面はもう埋まらないのか、とすら穿ってしまう。ここにも一人一人の「アメリカ人」は見え隠れする。

現代人である私たちに、能動的なものなどあるのだろうか。すべてが受動的なものに思えてきてしまう。現代社会のもっとも能動的なものの一つと思われている「起業」というシロモノも、油断すると数字という歯車の一部に組み込まれてしまうかのようだ。業績を上げたいのか、何かに上げさせられているのか、ふとわからなくなることがある。創業社長ですらこうなのだ。まして勤め人であるサラリーマンをや、である。

 

走っているのか、走らされているのか

マルクスのいう物象化とは、恋愛への疎外・教育熱への疎外・社会的ステータスへの疎外・お金への疎外というふうに、「何々への疎外」という力学である、と見田宗介は言ったそうだ(最新回マル激)。わたしなら「もっとほんとうのこと(=内面の王国)」からの疎外といいたいところだが、このほうがダイナミックな説明か。しかし、私たち一人一人の人間をメカニズムや力学として捉える図式は変わらない。ならば私たちはどうしたらこのメカニズムから逃れることができるのか。近代のメカニズムがわたしたち一人一人の内面のメカニズムをも容易く支配する。ただ止まらないように動くだけ。それが退屈の元凶である。

物象化は今も休まず進行中である。それはマルクスの時代より完成度を増して巨大化・複雑化している。世界全体が大きなひとつの全自動洗濯機のように回りだして久しい。世界はすでにほぼ均一なモノの集まりである。それがグローバリゼーションとIT革命の本質である。

象徴はマネーである。1971年だったか、金との軛を外されたマネーはその後の50年で世界中を覆いつくした。今や世界のGDP9000兆円規模である(日本が20個分と考えればわかりやすいか)。その上に、7000兆円の行き場のないマネーが漂う構図である。実物経済とほぼ同じ規模のゆき場のないマネーが漂っている。各国の金利がその流れの調整弁となる。今は一時的に、世界のマネーはアメリカに向かっている。日本の円安はその結果である。われわれのつたない努力より、こうした大きなメカニズムのひずみこそが業績を右へ左へ翻弄する。

マネーの本質は人々の妄想である。人々が思う「持っていればあれが買えそうだ・できそうだ」という妄想の集積でしかない。金との軛が解き放たれて、人々の妄想は際限なく広がった。必然であろう。世界は人間の妄想で出来上がっているのである。世界には善人も悪人もない。あるのは人々の妄想によって膨れ上がったメカニズムだけである。近代はマネーの膨張で加速したのである。それだけは確かであろう。この暴走は果たして止めるべきなのか否か。内面の空洞化を引き起こす近代というメカニズム。ただ、一方で、世界から飢餓が減ったこともまた事実である。マネーの量と共に人口は増えたのである。

 

近代という化け物を私たちはどんなふうに扱えばよいのだろう。近代という退屈、数字という牢獄、そして、それに抗する事業のカタチを考えてしまう。今や妄想すらマニュアル化してしまったかのようである。近代とは退屈の言い換えに過ぎないのである。

 

その退屈が内面のど真ん中に居座って離れてくれないのである。

私は長期休暇が大嫌いである。